Manchester’s Frozen

Until suicide

飼い猫のことと日記

18日(木)。

録画でかまいガチ、水曜日のダウンタウン見る。

セブンのピザトーストサンドソーセージ食う。ほろよいはちみつレモン飲む。

 

水ダウは素晴らしい回だった。

チャンス大城の山に埋められたエピソードは昨年末に知ったが、それが回収されたような気がした。

ドッキリなのだが、「説検証」というフィルターがつくだけで面白さが格段に違う。

 

 

なんの脈絡も無いけど嫌いな言葉→エモい、世界線、脳汁……

 

 

家族から受けた愛情や教育は、この先生きていく自分に与えられたものだ。死にたがっている自分に与えられたものではない。

そもそも死ぬという選択肢は用意されていないのだ。

死ねる環境が無いだけで、それがあればもう死んでいる、別に死ぬことなど怖くない、生きることと比べればと言った。

 

 

雌の飼い猫。あと何日一緒にいられる?

 

寝る時は夜中、人間の枕元に置いてあるクッションに身体を乗せて寝るのだ。クッションの感触が心地よいのか、肉球で堪能してから眠るのだ。

 

撫でれば頭を擦り付けて、すぐに喉を鳴らす。

人がいないと甘えて鳴きわめく。

人が現れると喉を鳴らして、転がって撫でてくれとアピールする。

玩具を与えると遊ぶ、人間の期待に必ず応えてくれる。

紐状のもの、ボール系、ぬいぐるみなど。

紐で遊びたい時は、紐を咥えて人間のところまで持っていく。

夏にベランダに行けば蝉を前足で叩き潰し、何度も口で咥える。

爪研ぎで爪研ぎしてくれる。

ビニールがあれば穴が開くまで噛む。

餌がいらないと、砂をかけるように前足を動かす。

TVの前だろうと構わずどっしりと寛ぐ。

炬燵の布団を挟んだ人間の膝の上に自ら足を運び、そのまま寛いで眠る。

 

猫がぼくの部屋に入っていて、クローゼット内に当たり前のようにこちらを向いてじっとしていたのを思い出した。

鳴かなくなった今でも、撫でれば喉を鳴らしてくれる。

 

AM5時台にここまで書いている。

永野出演のナイツラジオショー聞く。

 

人生が無意味であることを腹の底から理解しているから、それが苦しみに満ちてしまえば、もう本当に生き損である。

 

やはり創作に救いを求めてしまう。

別に救ってほしいわけではない。

同じような痛みを知りたいだけだ。

 

ここまでなんとか生きてこれたが、もう本当に限界だと思う。

 

誰がぼくを救えるのだ?

複合的な理由がぼくを死まで追い込むのだ。

生きることが救いだと思わないでくれ、死ぬことが救いではないと思わないでくれ。

 

 

この世は壮大な実験だと思う。

全てリハーサル無しで一発勝負で行われている。

ぶっつけ本番だ。

リハーサル無しで一発勝負でいいわけないじゃん。

改良しないといけないじゃん。

ぼくは実験台にされたってわけ。実験のために殺されるラットだ。

しかしその実験というのも、全く生かされないのよ。

生まれ損だし生き損だし死に損だ。

最悪だ。

実験かと思ったら本番でしたー。

 

 

15時ごろ起きる。

家族に死のうとするのを猫の死と関連付けるなとか、猫に対する冒涜だ、お前に構っている暇は無いなどと言われ、ぼくは突発的に家を飛び出す。公園で見つかる。

もうずっと限界なんだよ。ずっと無理しかしていない。死ぬ場所が無いだけ。何度もこういうことがあった。

死んでも生きても迷惑。

 

 

晩飯部屋。

21時台、ウエルシアで檸檬堂500mlとタフグミキウイスパークと辛ラーメンカップ買う。

また下痢する。

23時風呂。

 

不運なので飲酒したい。運が良ければ健康的な生活を送ることができます。もう暫く運動していない。