Manchester’s Frozen

Until suicide

貴方は「どんな人間だって価値がある」と「価値の無い人間もいる」どちらを言われたいですか? ぼくは後者ですね。世界はぼくを必要としていないから。ぼくが死んだところで世界には何の影響も無い。無価値な命がただただ消えるだけ。価値があるなら、何かしら歴史に残ったりするのでしょう。世界に多大なる損害を与えるのでしょう。

 

ぼくは崖から突き落とすような生きる絶望を欲している。

人を救おうとして発される綺麗事は事実に反する場合が多く、救おうとせず突き放すような言葉の方が真実に近く、救おうとするものより救いに近い。

 

それは皮肉な話だと思います。救おうとすればするほど救いから遠ざかる。そして、救おうとしないものの方が救いに近い。

そしてそのことは「救いなんて無い」ってことを暗に証明しているともいえる……

 

ぼくは真実を求めている。

世界は真実を見ることを嫌がる。それは何故か。

それはみんなが「真実は綺麗事より綺麗だが、触ると汚れるから」だと思う。

みんなまやかしの綺麗さで満足している。それで満足できている。

しかしそれでは満足できない人間もいる。そういう人間は、泥の中に手を突っ込む。その中には綺麗事より綺麗な真実があるから。世界は泥の中に手を突っ込むことを嫌がる。

 

真実は残酷で、直視すると絶望する。物事というのは、突き詰めれば身も蓋もない話ばかりだ。

しかしぼくのような残酷な運命を背負った人間は、その絶望を欲している。もう人生は崖から突き落とされているのかもしれない。だから言葉も崖から突き落としてほしい。命を崖から突き落とす勇気が無いから……

パンデミック

この世界には生きるに値しない理不尽さがあると思います。だから生まれてしまったのは悲劇です。

 

苦痛は思考を明晰にします。ぼくらは地球が耐え難い理不尽を軸に自転していることを知ります。

社会や人類の本質を知らない愚鈍な人間ほど生きやすい。そんな世界で苦しいのは当たり前です。世界は我々向きではありません。

 

ぼくらをうんざりさせるウイルスが、常に世界には蔓延しています。世界は常にパンデミックなのです。

そのウイルスに罹れば、病気扱いされず、治療法も無く、病死することもできない。

それは精神に罹る病なのです。それを消す方法などあるのでしょうか。精神の死に追いつかせるために肉体を終わらせるというのが自殺でしょうけれど、それはそのウイルスによる病死ではないか。

生まれてしまった以上、自殺以外の方法で寿命より早く死ぬことはできないので、実質自死することは許されていない。しかしそんなルールはぼくらにとっては余りにも酷だ。

この世界にぼくらの居場所はあるのでしょうか。ぼくらが呼吸できる場所はあるのか。

一生晴れない霧の中、毎日死にたくてたまらなくて、腐乱死体のような気分で生きる人がいる。

クズのジレンマ

精神状態が悪い。しんどい。

ぼくは曲を作っている。死ぬまでに作り上げたい曲のストックがある。しかし鬱の渦中にあっては、作業に着手するハードルが高くてなかなか進められない。PCを開くのが億劫なのだ。ギターを持つ手も震える。

「このまま死ぬのではないか」という恐怖があるから、「曲を作り終えるまで死ねない」って焦る。しかし焦っても無駄だ。波が引くのを待つのみだ。

まあ自殺しない限り死なないから死ぬことはないということは分かっているんだけど、死ぬのではないかとガチで思う。いつか実行してしまうのではないかって。

 

じゃあ精神状態が良い時に作業すればいいって話になります。しかし精神状態が良い時は、「別に今やらんでよくね」みたいな楽観野郎になります。苦痛はぼくを創作へ駆動するエンジンです。だから特に追い込まれていないとつい楽してしまう。ぼくはこれをクズのジレンマと呼びたい。

 

元気があれば何でもできるって名言あるじゃないですか、あれって真理だなと思うようになりました。鬱病になってからよく沁みます。

鬱の渦中では、とにかく良くなりたくて仕方ない。身動きも取れない状態で、元気なときにもっと現実と真摯に対峙しておくべきだったと後悔する。そんなクズのジレンマの最中には、寝そべりながらこんな文章を書くことくらいしかできない。

強迫症状について

今ぼくは非常に苦しい。非常にしんどい。


或る症状が自分の脳内に予兆も無く急に舞い込んできて、それに囚われて、その症状の奴隷になっている。


人間は自分の眼で自分の顔面を見ることは不可能だ。それをするためには眼を取り外すしかないが、眼単体では眼として機能しない。首を取り外して見ようとしても、見られるのは顔の無い状態の自分の死体だ。

ぼくは今「自分で自分の顔面を見ないといけない」という強迫症状に囚われて苦しんでいる。それは「不可能なことをしなければならない」という強迫観念だ。

 

ぼくは今年の3月に、自分が自分の舌を噛み切るのではないかという強迫観念によって鬱を発症し、精神科に通い始めた。病状を説明する時に「強迫性障害かもしれない」と付け加えたのだが、強迫性障害という病名を貰うことはできなかった。貰えたのは精神薬だけだった。

しかし発症して10日もすれば、病状は安定した。元の状態に戻れた。

しかし気を抜いているうちに、予兆も無く再びその症状に囚われた。ここ数ヶ月はそのような状態を繰り返している。

 

そして5月の中頃、突如とある強迫観念が舞い込んできた。それは「自分が自分の小指の骨を折るのではないか」という強迫観念だ。

強迫性障害は、ある強迫観念に取り憑かれ、それを無視すると「何か不吉なことが起こるかも」などと考えて気が滅入ってしまうので、しんどくてもそれを実行するという障害だ。しかしぼくの場合、その強迫観念が「小指を折らないといけない」といったエクストリームなものだったので、それは実行不可能だ。だから無視せざるを得なくて、そのせいで気が滅入ってしまい、抑鬱状態に陥る。

そしてそのエクストリームな強迫観念は形を変えてぼくを襲った。例えば「部屋の窓から飛び降りなければならない」とか「自分で自分の眼球を潰さないといけない」とか。

襲われた刹那から抑鬱が始まる。その時は何も手につかない。しかし数時間もすれば殆ど改善している場合が多い。日内変動があるのだ。そして改善した状態が何日か続き、また新たな強迫観念に襲われる。

改善と悪化を繰り返し、何とか生きている。

 

思えば強迫性障害のような症状は小学生の頃からあった。部屋に入るまでにある特定の場所を触らないと気が済まなかったり、物を触る度に手に息を吹きかけないと気が済まなかったりした。

それを何年も放置してきた。そのせいでエスカレートしたのだろうか。

 

ぼくの症状の場合は確認行為のしようが無い。救いようが無い。まだ確認行為ができるような症状だったらましかもしれない。ぼくの場合は確認行為=死だ。こんな辛い症状は無い。

いじめ後遺症防止策

いじめ被害体験

ぼくは中学時代、同じサッカー部であった加藤という男に来る日も来る日もハーフパンツを下ろされた。毎回パンツが丸出しになった。そしてそれを見た周囲にそのパンツがダサいと笑われた。時にはパンツまで犠牲になった。ぼくの陰部は露わになった。ぼくは苦しかった。悔しかった。嫌だった。

そしてぼくは学習した。ハーフパンツの紐を結んだのだ。これでもう安心。その日も加藤はぼくに加害した。ぼくのハーフパンツは微動だにしなかった。ぼくは勝利を確信した。得意気だった。しかしそう思った刹那、ぼくのハーフパンツの裾は胴の部分まで引っ張り上げられた。そのまま数秒間停止された。これはこれで恥辱だった。もはや逃げ道など無かった。

ぼくは加藤に、その他にも多様な恥辱を受けた。例えばパンを盗まれたり皮膚を抓られて痣を作ったりとか。

ぼくは大人になった今でもそのいじめ被害の数々を思い出す度に、精神的苦痛に襲われる。それは「いじめ後遺症」と呼ばれる症状である。

そしてそれと同時に、ではどうすればそれを防げたのか? という疑問が浮かぶ。ぼくは今回、拙くもその問いに向かっていきたい。

 

いじめの時効

まず学生時代のいじめは、その殆どが然るべき対処を怠られる。そして何事も無かったかのように済まされる。

そして時間は経過し時効は成立する。

しかしたとえ時効が成立していたとしても、被害者側が許せない限り事件は続いているのだ。

事件に時効はあっても被害者が納得しないなら、それは事件の終了を意味しない。

しかし理不尽に気付いて声を上げられるようになった頃には、もう時効は成立している。

ではそのジレンマを如何にして防ぐことができるのか。

 

然るべき対処

いじめ後遺症を防ぐためには、「然るべき対処」が成される必要があった。ではそれは如何なるものなのか。

精神科医斎藤環氏は、いじめの後遺症を残さないコツは、①加害者の謝罪、②加害者の処罰(処分)、③被害者の納得、であるという。

斎藤環氏はTwitterやインタビュー等でいじめについて語る際、必ずといっていいほどこのことを強調して語る。ぼくは信憑性のあるこの3ステップを「然るべき対処」として扱いたい。

しかし現実では、その3つのステップの全てが満足に行われていないように思う。

 

「いじめは助けを求めるべきこと」であるという感覚を持てない

なるほど、「然るべき対処」を実行すれば、いじめ後遺症を防ぐことができるという。

しかしそこに進む前に、我々は重大な欠陥を見落としている。それはいじめ被害者が「『いじめは助けを求めるべきこと』であるという感覚を持てない」という事実である。

その場合、「いじめをいじめとして扱う」ことが困難になる。これはぼくの経験に裏付けされている。

事実、ぼくは誰にも助けを求められなかった。その要因は他でもない、「いじめは助けを求めるべきこと」であるという感覚を持つことができなかったからである。

全てのいじめは指導者の目に付かないところで行われたから、第三者の発見には期待できなかった。だから自分のいじめ被害を救えるのは自分しかいなかった。

しかし当の自分は「いじめは助けを求めるべきこと」であるという感覚を持つことができなかった。寧ろ「いじめられる自分が悪い」と自責の念に駆られ、我慢せざるを得なかった。自分にはターゲットにされる理由があって、自分はそれに耐えねばならないのだという義務感があった。

 

では何故ぼくは「いじめは助けを求めるべきこと」であるという感覚を持つことができなかったのか。

それは、親も先生もそのことを教えてくれなかったからである。子供の自分が自力でその感覚を持つことができる可能性は皆無だった。大人から教えられない限り、知ることはできないのだ。しかし現実ではそういった教育はなされていない。

ぼくはこれは学校の教育制度の問題だと思う。ぼくはそういった現行の教育制度の欠陥により、いじめに苦しんだと言える。

 

ではその欠陥を埋めるためにはどうすべきか。

それは、親や教師が全生徒に「いじめられたら、あなたは何一つ悪くないから、そしてそれは耐える必要の無いものだから、処罰の対処となるようなものだから、誰か周囲の大人に相談してください。恥ずかしがることも恐れることも無いので、堂々と大人にチクってください」と教え込むことであると考える。ぼくの場合はそう大人から教えられる以外に、「いじめは助けを求めるべきこと」であるという感覚を持つことは不可能だった。そしてそれ以外に、「いじめをいじめとして扱う」という当たり前のことを実現する方法は無かった。

それを全生徒が認識するように親や教師といった大人が働きかける。しかしその実現のためには教育制度の抜本的な見直しが要請されると思う。

 

とにかく必要なのは「いじめられている自分は何一つ悪くなく、いじめている側が100%悪い」という感覚をいじめ被害者が持てることだ。それがあって初めて、いじめ後遺症防止への道は開ける。

いじめ被害者が「いじめをいじめとして扱う」ことができるようにならない限り、そのいじめが発覚することは無いのだ。

そのためにはどうすべきか。その処方箋が見つかって実行されるというプロセスはいじめ後遺症防止には無くてはならない土台である。

そしてその土台が形成されない限りは、いじめ後遺症防止のスタートラインに立つことはできない。

 

いじめ後遺症防止策

加害者はいじめのことなど忘れ、のうのうと幸福に生きている場合が多い。一方被害者はPTSDを患ったり何らかの精神疾患を患ったりして、社会に適応できず精神科に通うなどして苦しむケースが多い。

そんな理不尽ないじめ後遺症を避けるためにすべきことは何か。それこそが「然るべき対処」だ。

 

まず必要なのは①加害者の謝罪だ。

いじめが発覚した後、まず被害者と加害者の中にいじめの正常な正義感覚を落とし込む必要がある。

それは猿でも分かる社会一般の常識だ。しかし学校の校門をくぐった刹那、その感覚は麻痺してしまう。

学校では、時代錯誤の閉鎖性によっていじめが温存され、増殖され、対処ができなくなってしまう。つまり治外法権化してしまう。だから学校を聖域にしてはならず、教員を聖職としてはならない。

学校も市民社会だから、たとえ生徒間であれ全くの他者同士なので、当然謝罪が行われないといけない。

しかし残念なことにそれは常識化されていない。もしたったひとつの謝罪によって救われた命が、謝罪されなかったことによって失われた命があったかもしれない。

 

そして学校は市民社会だから、暴力行為があれば生徒間であれ教師生徒間であれ、警察を呼べることにすることが重要である。

そう、それこそが②加害者の処罰(処分)だ。

謝罪だけでは物足りない。そしてその感情には法的な根拠がある。学校は法化されていないといけないのだ。

いじめは「教育」の管轄外だ。いじめを「指導」で対処しようという考え方は時代錯誤だ。不適切だ。

しかし残念なことにこれも一般常識化されていないと思う。

少し考えれば分かると思う。文化変容(「異なった文化をもった人びとの集団どうしが互いに持続的な直接的接触をした結果、その一方または両方の集団のもともとの文化型に変化を起こす現象)こそが一般常識化への開けた道だと思うが、その機会が無いことが問題だと思う。

 

そしてそれらが実行されて初めて③被害者の納得が実現する。これでいじめ後遺症を防止することができる。

しかし現実にはそのプロセスを実行できるような優秀な教師はレアだ。いじめ対策について、世の学校教師は無能であると言わざるを得ない。被害者にとっては八方塞がりであるというのが現状だと思う。

 

表沙汰にするハードル

いじめ後遺症防止策をいくら完全なものとしたところで、いじめが表沙汰にならないと話にならない。

しかし「然るべき対処」が敷設されている環境下においては、自ずと表沙汰にするハードルも下がっていくだろう。

だからたとえ教師や親からの「『いじめは助けを求めるべきこと』であるという感覚」を持たせる働きかけが無くとも、「然るべき対処」が敷設されていれば、生徒・児童たちは自ずと「『いじめは助けを求めるべきこと』であるという感覚」を体得していくだろう。

そしていじめに関する正しい知識が共有された共同体においていじめを行うことは、自ら火の中に飛び込むような行為だ。「然るべき対処の敷設」は抑止力としても十分な効果を発揮するだろう。

 

つまり「然るべき対処」が敷設された環境においてのみ、「『いじめは助けを求めるべきこと』であるという感覚」を齎されるチャンスがあるのだ。

逆に「然るべき対処」が敷設されていない環境では、「『いじめは助けを求めるべきこと』であるという感覚」 をどれだけ教えこまれたところで、「誰がどうやって助けてくれるの?」と怪訝になるだけだ。その場合大人は言葉だけの無責任になる。だからそもそもその機会が無い。

 

「表沙汰にしやすさ」と「然るべき対処の敷設」は不可分の関係性にあるだろう。だから残酷なことに、「表沙汰にしやすさ」の無い環境に「然るべき対処の敷設」は無いし、「然るべき対処の敷設」の無い環境に「表沙汰にしやすさ」は無いのだ。

それはいじめ被害者にとって極めて劣悪な環境といえる。

 

親や教師が自律的に「『いじめは助けを求めるべきこと』であるという感覚」を生徒に教え込めることは不可能だ。親も教師も未熟なのだ、それは仕方の無いことだ。だから制度の充実という環境からのアプローチが必要不可欠だ。

 

「表沙汰にしやすさ」と「然るべき対処の敷設」は、「どちらもある」か「どちらもない」のどちらかなのだ。「どちらかがある」というケースは基本的に無い。

「表沙汰にしやすさ」が無いと「然るべき対処」は形骸化してしまうが、「然るべき対処の敷設」の無いところに「表沙汰にしやすさ」は無いのだ。

しかし残念なことに、「どちらもない」というのが現代日本の教育現場の現状だ。

 

コミュニケーション操作系いじめ

②加害者の処罰(処分)について、少し引っかかる点がある。「全てのいじめが処罰の対象となりうるのか?」という疑問がどうしても拭えないのだ。

そう、日本のいじめは、暴力系ではなくコミュニケーション操作系が主流だ。それは「シカト」「嫌な渾名をつける」といったものだ。しかしそれらのいじめ行為は刑事事件化が可能なのか?

そしてもしそのせいで被害者が自殺まで追い詰められてしまったとしても、救済の余地は無かったというのか?

そういった問題に対について詳しく書かれた荻上チキ氏の文章を引用する。

https://toyokeizai.net/articles/-/232049?page=4

たとえば「いじめは犯罪」という言い方があります。確かに暴行や恐喝は犯罪であり、こうしたケースについては警察などとの連携を増やしていかなくてはなりません。学校を聖域化して、第三者の目を入れず、独自の采配で事を済ませることが横行している現状は、正していかなくてはなりません。

しかし、いじめには大きく分けて、「暴力系いじめ」と「コミュニケーション操作系いじめ(非暴力系いじめ)」の2つがあります。

殴る、蹴る、性暴力を行う、恐喝をするといった前者と、物を隠す、嫌なあだ名をつける、嫌なうわさ話を流す、無視するといった後者とでは、対応の仕方も変えなければなりません。

現代日本の場合、大半のいじめは「コミュニケーション操作系いじめ」です。こうしたいじめも、「暴力系いじめ」と同じように「犯罪」として取り扱い、「警察に通報」しさえすれば、解決するでしょうか。いえ、そもそも「犯罪」としての要件を満たさないケースが多いため、難しいでしょう。ですので、「いじめは犯罪なので警察に」とひとくくりにはできないのです。

「コミュニケーション操作系いじめ」では特に、被害者にそのいじめの記録をつけさせたり、丁寧な聞き取りを行ったりすることが重要となります。だからこそ、どんな指導がより適切なのか、現場では頭を悩ませているのです。

外野からの「加害者を罰すればいい」という意見は、「特効薬」を求めるあまり、いじめの実態を無視してしまう結果となっています。教師の目を盗んで行われる「コミュニケーション操作系いじめ」に対して、教育現場でいかなる指導(早期発見・早期解決)をすればいいのかという観点が抜け落ちているのです。

「コミュニケーション操作系いじめ」は「暴力系いじめ」と比較して「いじめであるか否か」の判断が難しく、それ故に発覚がスムーズにいかなくなる場合が多いと思う。

そして法的処罰の対象外である場合、それで被害者の溜飲は下がるのかという疑問も浮かぶ。被害者が完全に納得する「謝罪」は如何なるもので、それはしっかりと実行されうるものなのか。

抑止力という点で見ても問題があると思う。処罰の不在は、「犯罪でない」ということは、加害者の中に「謝罪すればなんでもいい(だからいくらでも加害してよい)」という感覚を構築しかねない。

「コミュニケーション操作系いじめ」によるいじめ後遺症のケアは、「いじめは犯罪だ」という言説の篩から抜け落ちてしまうがために困難を極めている。

 

そもそも何故「いじめ後遺症防止」なのか

「いじめ防止」でも「いじめ対策」でもなく「いじめ後遺症防止」である理由を説明する。

個人的にいじめに対しては、「一度起きてしまったら仕方ない」という態度で向き合うのが賢明だと思う。

いじめの根絶、撲滅は難しいと考える。よく「いじめゼロ」を標榜する教育スローガンを見かけるが、それは現実離れした目標だと思う。だから「防止」は相応しくない気がする。

防止するのは寧ろいじめ「後遺症」の方だと思う。いじめ対策に関しては防止より「ケア」の方に比重を置くべきだと思う。

 

まず「防止」は「予防」と言い換えられる。しかしいじめの「予防」は予防接種がそうであるように完全ではない。重要なのは防げなかったいじめのケアだ。

いじめが発覚した後の対応が何よりも重要だ。「いじめは完全に防げないもの」という感覚のもとで行われる適切な対処が必要だ。それを怠られると後々後遺症に苦しむことになる。

もしいじめが防止できなかった場合、それをいつまでも宙ぶらりんにされてしまえば、その最中は耐えるしかない。そして例えば学校の卒業まで耐え抜くことができたとしても、後の後遺症が待っている。

誤解を恐れずにいうと、いじめの本当の苦痛は後遺症なのだ。

だから防げなかったいじめに対処するのは、「後遺症を防止するため」ともいえるのだ。

防げなかったいじめに対処するのは、それはもちろんその場で被害者を救済するのが目的だが、同時に「いじめ後遺症予防」の目的もある。そしてそれは同時に実行可能である。

そしていじめ後遺症防止に務めることは、そのままいじめの防止にも繋がるのではないかと思う。「防止」だけを目的としたいじめ対策ほど、抑止力(予防)として機能しないというジレンマがあると思う。

とにかく重要なのは「後遺症を残さない」ことだ。その時に然るべき対処を行わないと、その後の人生に支障を来す。

 

このことをサッカーで喩えるなら、重要な試合で誤審での失点が認められ、そのまま判定が覆ることなく試合終了する、といったところか。

試合中に適切な対処が行われないと判定が覆ることは無く、敗北は永遠のものとなり、その結果がチームの今後の行方を左右するかもしれない。

ここで重要なのは、「誤審での失点が起こってしまった場合の対応」だ。誤審での失点が起こらないことは大事だが、審判団も人間なので、限界はある。だから失点が起こってしまった場合の対応こそが重要だ。

だから現代サッカーでは、その対処法としてVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)やGL(ゴールラインテクノロジー)が導入された。

それらのテクノロジーは、不要な悲劇を防ぐために用いられたのだ。

悲劇が尾を引くのは試合後だ。

人生は一試合しか無い。その試合を誤審によって壊され、それが看過され、そのまま試合は終了し、判定が覆ることは無く不当に敗北した人生を歩んでいくことは悲劇だ。不要な悲劇だ。

 

サッカー界も時代は変わり、VARやGLが導入されて、「不要な悲劇」を撲滅することに役立っている。

だからいじめの世界でも、「①加害者の謝罪、②加害者の処罰(処分)、③被害者の納得」が学校教育現場に早急に導入されて、いじめ後遺症という「不要な悲劇」を撲滅することに役立つ未来が来ることを祈るばかりである。

 

そもそもいじめの「防止」って何だろう。

義務教育時代の道徳教育なんて、暴君にとっては対牛弾琴なのだ。そんなものでいじめが無くなるなら水を煮ながら氷を作れると思う。道徳教育は性善説を前提にしていると思う。しかし性善説前提で考えられた物事が良い結果を生むというのには懐疑的である。性悪説前提で考えられた物事の方が信用できる。

 

エルフェンリート』のルーシーは、『キャリー』のキャリーは、『ヒメアノ〜ル』の森田は、復讐の鬼と化して大量殺人を犯した。

彼らは凄惨ないじめを受けてきた。その中でも森田はいじめ後遺症に酷く悩まされていた。

彼は「不要な悲劇」の被害者だ。それなのにシリアルキラーとなって、世間の敵となった。

そこで浮かぶのは「悪」なのは彼だけなのか? という疑問である。彼のような人間を「自殺もできないクズ」だの「一人で死ね」だのと罵倒するのは想像力があまりにも貧困である。犯罪を擁護すること(免責)はできないが、彼のような人間をそこまで追い詰める教育制度や社会の欠陥に目を背けたくもない。

 

血の轍

一体どれだけの子供が、大人が、いじめで苦しんで命を絶たないといけないのか。いじめ自殺を遂げた子供の遺族が「これで最後の犠牲に」と泣くのはもはや茶番だ。ぼくはもう見飽きた。でも残念ながらそれは実現しない。絵空事であるというのが現状だ。

 

ぼくは泣き寝入りしなければならなかった。実際受けたいじめ被害は数知れない。特にこのエントリ(https://enfsk.hatenablog.com/entry/2020/06/30/051414)に書かれているいじめ(家庭内暴力も含む)の後遺症は、ぼくをしばしば自殺か殺人かの精神状態にまで追い詰める。当時に戻って加害者共を撲殺したいと思ったりする。リベンジャー系の犯罪者の気持ちが分かってしまう。いじめは人間としての尊厳の破壊だ、人が通常の生活を送るのを困難にさせる。

ぼくは教育者でもない、その辺の市井のぼんくら中卒だから処方箋を提示できるわけではない。ただ、問題点を炙り出せたらと思っているだけだ。

今回は「如何にして過去の自分をいじめから救えたか」というテーマに沿って考えた。大抵いじめの理不尽さはその場を卒業してから理解できる。その時はもうリベンジの機会も無い。それこそが理不尽の本懐だ。早い話が轢き逃げだ。ぼくは時効になったその事件に異議申し立てをしているに過ぎない。いじめ後遺症防止策を考えることは自分にとって血の轍である。どこかの誰かにとってそれが道標になったらと願っている。

 

最後にロックバンドManic Street Preachers の『If You Tolerate This Your Children Will Be Next』という曲を紹介する。邦題は『輝ける世代のために』。

タイトルを直訳すると「君がこれを容認するならば、君の子供たちが次の番になるだろう」となる。つまり負の連鎖への警告だ。

サビではこう歌われる。

もし、こんな事を許すのなら
次は子供達が同じ目に遭う
こんな不条理を看過すれば
次は君の子供の番だ

次は君らの子供達の

 

 

世に溢れるいじめ言説はクソ

ここからはおまけというかコラム。

世に溢れるいじめに関する言説に、賛同できないものが多くある。いくつか挙げてみる。

 

  • 「いじめられる方にも非(原因)がある」

これに関しては、たとえもしそうだとしても、それがいじめ加害を肯定する理由になることなど有り得ない。疑問だが、彼らは自分がいじめ被害者になった場合もそのスタンスを保てるのか。どんな苛烈ないじめに遭っても「こんな自分ならいじめられて当然」と耐えられるような人間ですらそれを言うことは許されないだろう。

「いじめられる原因を治せば?」とかいってくる奴もいるが、治されるべきはいじめの方である。

 

  • 「いじめられる側に原因はない」

これは危険だ。「いじめられる側に原因があったとしてもいじめてはいけない」に改める必要がある。「原因はない」論だと「いじめられる側に原因がある場合はいじめではない」と言い逃れができてしまう。

 

  • 「イジメ、かっこ悪い」

これは有名なACのCMのフレーズ。前園のやつ。いじめはかっこ悪いからやってはいけないのではなく、正義に反するからよくない。この広告にはプロパガンダを感じて不快だ。

 

  • 「いじめに負けるな」

これは脳筋フレーズ。「いじめに負けるな」を通用させるなら、「犯罪に負けるな」も通用させないとフェアではない。街で急に知らない人に殴られても、それに動じないメンタルを鍛えろと言っているようなもの。そうなったらもう警察なんて要らない。

やはり学校は人の常識感覚を麻痺させるサンクチュアリだ。その不健全な魔法によって治外法権化してしまう。

 

  • 「周りの大人に助けを求めろ」

これに関してはこの言説が問題であるというわけではない。この言説は真っ当だし、ぼくも賛同している。

問題は、「周りの大人に助けを求めろ」なんて第三者がメッセージしたところで、被害者当人の耳にに届くのかという点だ。そんなメッセージをSNSで発したところで本当に届けたい被害者の心まで届かなければ無意味だ。教育委員会に訴えたりしないことには当事者まで届くことがないというのが現状だ。

 

  • 「『いじめ』なんて存在しない。全てのいじめは犯罪である」

これは誤りである。たしかにそう言われていじめに対する価値観が変わって、ふっと心が楽になったりすることもあるだろう。そういう作用は期待できる。ぼくもその一人だった。しかし副作用もある。

その「副作用」については本エントリの「コミュニケーション操作系いじめ」の部分に詳しい。

 

  • 「もう終わったことだから」

これに対する回答は本エントリの最初に出したつもりだ。「たとえ時効が成立していたとしても、被害者側が許せない限り事件は続いているのだ。事件に時効はあっても被害者が納得しないなら、それは事件の終了を意味しない。」という箇所だ。

しかしこれを説いてもそういう人間には話が通じない場合が多い。正直者が馬鹿を見る世界です、やってられません。

 

  • 「いじめ克服法」

メンタリストDaiGoが過去のいじめ克服法を語っている動画を見た。彼はある時加害者に対して「やり返した」らしく、それ以来周囲の彼に対する見方が変わり、いじめは収束したという。そして彼は「自分が行動することによって周りの世界がこんなに変わる」という教訓を得たという。

しかしぼくにはそれは美談にしか思えない。

実際にやり返したら、たった1のその加害で咎められリンチに遭うだろう。そしてチクられて大人に怒られて弁解の余地すら与えられない可能性もある。やり返すことでパワーバランスが変わるなんてレアケースだ。

美談には得てして一般性が無い。希望は与えても方法論が無い。だからそれが一般論であるかのように押し付けられても困る。

そしてそもそもいじめは「克服」するようなものではない。乗り越えるべき人生の試練なんかじゃない。排除すべき人生の癌だ。その大前提を無視した「いじめ克服法」などというものはいじめ問題解決法として相応しくない。

 

  • 「やり返せ」

〇ね。

おっと口が滑った。これに関してはもう「ダブルチーズバーガー旨い」くらいの認識でいいです。

 

  • 「幸せになることが復讐」

幸せになれないから苦しんでいるんだよ。そもそも幸せになることの何が「復讐」なのか。

そして幸せになれる兆しがあるなら、もう既に復讐心は相当癒えているのではないか? 幸せなんて望めないほど人生を破壊されたからこそ復讐心を滾らせるわけだろう。的外れもいいところ。二度と聞きたくない。

 

  • 「犯した罪の数々が背筋を伝う時が絶対くる」

だったら法律なんて要らないし、だったらいじめていいのかって話になるし、何故「絶対」と言い切れるのか疑問だし、そもそもそれでは被害者は納得しないのでは。

 

  • 「いじめていいのはいじめられる覚悟があるやつだけだ」

なんかもう疲れました。トンデモすぎて脳が思考を停止しました。

 

  • 「自殺するくらいなら学校から逃げろ」「無理して学校に行かなくて良いんだよ」

これに関しては春名風花さんのこのモーメントを読んでください。全人類が読んでください。↓

https://twitter.com/i/events/1165773231527084032?s=21

 

なんにせよ、被害者を責めるような言説が殄滅されることを願うばかりである。

今回挙げたような言説は未だにテレビ等のメディアで跋扈している。

いじめ研究についてのデータなどをインプットしていないタレントが厚顔無恥に語る。それを馬鹿な大衆が持ち上げる。ぼくは無反省なタレントにも大衆にも辟易する。こういったクソ言説のおかげで葬儀屋が儲かるばかりだよ。

レクサプロ

今すぐこの世を去って ぼくは楽になりたいよ
街は臭い花盛りで 毎秒呼吸困難

ああ ぼくを誰か 誤魔化してくれ

沈んでいく船の中で
幸福そうなきみの笑顔は
神か天使のよう 届かなくて

疎まれた悪魔の歌 それだけが真実だよ
今日も街はいつも通り 生きるには汚れ過ぎている

ああ 逃げ道など無いと言ってくれ

沈んでいく船の中で
薄れていく希望と酸素
一生 生きる時間全て 拷問だよ

ああ 生き地獄に 薬ぶち込んで

沈んでいく船の中で
幸福そうなきみの笑顔は
神か天使のよう 届かなくて

沈んでいく船の中で
薄れていく希望と酸素
一生 生きる時間全て 拷問だよ

(I'm) The End of the Family Line

何の面倒もなく

続いてきた 15世代

わが家系

みな 自然の摂理を拝受してきた

この左巻きのスタイルで

僕が現れ出づるまでは

 

僕が最後

家系の最後

一族の最後

このさか巻く喧騒の中に

泣き叫びながら産み落とされる

赤児はない

偶然でも 気紛れでも

(万が一 愛によっても)

うちの家系樹は ばっさり切り落とされて衰退へ

そして 僕は

さよならを言う苦痛を免れた

 

僕が最後

家系の最後

この一族の最後

訳:山下えりか

 

『(I'm) The End of the Family Line』は、社会不適合者の永遠の英雄Morisseyの2枚目のソロアルバム「Kill Uncle」に収録されている楽曲である。

 

左巻きのスタイル」の「左巻き」の意味が分からなくて調べたら、

左巻きとは頭が悪いこと、頭の回転が鈍いことをいう(=馬鹿・阿呆に類する)。また、そういった人を罵ったり、嘲う際に使う言葉である。これは、つむじが左巻きの人は頭が悪いという説からきている(ただし、この説自体は何の根拠も立証もない俗説である)。

ということらしい。

ちなみに元の詞は「incredible style」。「incredible」は「信用できない、信じられない」という意味だが、もし直訳すれば「信じられないスタイル」となる。その場合皮肉のエッセンスが付加されるように思う。もしかしたら皮肉屋のモリッシーだから、そういう目的もあったのかもしれない。

 

ここからは曲の解説と感想。

「自然の摂理を拝受する」ということは、特に何の疑いを持つことも無く受け継いだ通りに家系樹を伸ばしていくということで、「僕」にとってそれは「左巻き」の愚挙であるという。

何故なら、「僕」にとって子供を生み出すという行為は、地球という「さかまく喧騒」に無理矢理巻き込むという無知さとエゴに塗れた痴態であるからだ。

「僕」は出生を好ましく思っていない。寧ろ反発している。反出生主義の主張そのものであるように思う。

 

モリッシーは常にマイノリティの立場で歌っている。

子供を生まなかったり、出生に反対すると必然的にマイノリティになる。白い目で見られたり、はぐれ者とされる。

場合によっては負け組の嫉妬とかルサンチマン痛々しい、厨二病陰キャキモい等々言われる。

しかしそれらはマジョリティの幻想であり、シュガーコーティングされた眉唾物の善や正しさでしかない。

何故なら寧ろ弱者や少数派の方が善であり正しかったりする場合が多いから。真実は多数決ではない。

しかしマイノリティが勝つことはできない。

だから、「間違っていない」という肯定が必要である。せめてもの救済措置だ。それはモリッシーThe Smiths時代からやってきた試みでもある。

当然のように教えこまれてきた同調圧やありもしない「常識」から解放してくれる。

そして「弱者」こそが正しく美しいという逆転の発想を促す。「弱者」は闘争により「強者」へとチェンジすることなく、「弱者」のままで光輝く。

 

人類には「勝ち組ほど愚か」になるというシステムが横行しているように思う。ぼくらが本当に欲しいものはテレビには無い。

なるたる』という漫画に、「痛みは思考を明晰にする」という台詞がある。

それを引くならばモリッシーの書く詩には、孤立して凍死する運命にあった明晰さの尊さを温める作用があるように思う。

 

いつしかぼくは、出生について何の反省も無く「当然のことをした」と言わんばかりの顔で日々生きている祖父母に憎悪しか感じなくなっていた。

 

勿論ぼくもこの不毛な家系樹をばっさり切り落とすつもりだ。ぼくにとってこの世界と人生は地獄だったから。もう誰も味わわないように。No life, No suffering.

もし全人類がそうすれば、人類に初めての平和が訪れることでしょう……