Manchester’s Frozen

Until suicide

希望

全ての希望が消えた気がして何もやる気が起こらない。

一刻も早くこの世を去りたい。

希望が無いと生きていけない。

希望なんて持たなくとも生きていけるなんて虚妄である。

希望とは明日を生きる目的や喜びと言い換えることができると思う。

別に希望なんて持たなくても生きていけるだろと思われる人がいるかもしれない。しかし考えてみてほしい、一般的に人間は明日を生きる目的や喜びがあるから生きていけているわけだろう。ぼくはそういうものを希望と呼びたいわけである。

別に大層な夢の話ではない。

その意味での希望が希薄なのである。

 

Syrup16gは『I can't change the world』で

人は何を望めばいい
全てを失ってもなお
I can't change the world

と歌っている。

 

失望が大きい。自分がどのような失望を感じているのかということは過去記事に散々書いた。

 

まれに優しい言葉をかけてくれる人がいる、非常に感謝している。しかし所詮はネットの言葉なので生身の人間からの言葉と比較すれば効果は薄い。しかし自分にとってはそれが全てなのである。

そんな不確実なものに依存しているような状態は不健全で異常である。

 

生きている限り希望は続く。死ねば消える。しかし無いも同然の希望に縋って生きるのは果たして健全なことなのか。

 

希望は弱いものの卑しい道具だ。

 

特別であるとは、つまり死んでいるということかもしれない。

 

彼にとって世界は、地中にせよ上にせよ見聞きの対象でしかなくなってしまった。

田中慎弥の『蛹』より引用。

この小説では、蛹はひきこもりのメタファーである。

「夢を夢想するだけで叶った気になって満足している」など、ひきこもり特有の思考が、脱皮できない一匹の雄のカブトムシを通して描かれている。

因みに著者の田中慎弥自身もひきこもりであった。

 

希望など叶わないことは分かりきっているが、いつか叶うかもしれないと夢想することによって安心している。完全に絶望せずにいられる。具体的な行動はせずに。

その行為は卑しい。ただの現実逃避でしかない。根拠の無い楽観視である。

 

自殺する夢想をする。

5ちゃんの首吊りスレを覗き込まないと精神が保てない時もある。

自分が縊れ果てた後の家族を想像する。

今は身動きが取れない。

存在していたくなくて仕方ない。

何もやる気を出せない。

ただの怠惰でしかないと言われたらそれまでだ、言い返す言葉も無い。

ただ、生きることも死ぬこともできずにいる。

ただ、暫くは死なないと思う。

今言えるのはそれだけだ。

また何か書く。