2021年の3月13日(土)のことである。
夕食後、舌の裏にできた口内炎の痛みに全神経が気を取られていた。
そして意識は、舌に集中した。
すると、自分で自分の舌を噛み切るイメージが湧き起こった。
そしてそれは止まらなくなった。
「自分で自分の舌を噛み切るかもしれない」という恐怖に怯えて、気が気ではなくなった。
そして瞬く間に鬱状態に陥った。
「精神的に辛い」と両親に告白し、翌日にメンタルクリニックへ行くことになった。
その夜は、舌を噛むことを恐れ、タオルを口に含みながら就寝した。
3月14日(日)。
昼に母親の車で隣町のメンタルクリニックへと向かった。酷い鬱状態で、起き上がるのもやっとだった。セブンで母がミルクパンを買ってくれたが、半分も食べられなかった。助手席で呻吟していた。
そしてメンタルクリニックに着いたが、以前鬱病で通っていた時期から5年以上経っており、初診扱いとなっていて、予約が必要ということだった。とんぼ返りを余儀なくされた。
絶望した。藁にもすがる思いだったから。帰りの車中で予約を入れた。火曜日ということだった。
そして帰宅。鬱状態で、死を覚悟した。ベッドで仰向けで呻吟しながら、買ったのに聴いていないCDを慌てて聴いたりしていた。
そしてその夜。あまりの苦痛に、自殺しかけた。震える手でネットで首吊りの方法を調べて、ギターのシールドで結んだ。
しかし実行せずに、なんとか持ち堪えた。
その症状+鬱の苦痛と、首吊りをする苦痛とを天秤にかけて、前者が後者を上回ると思ったのだ。
しかしなんとか耐えた。
3月15日(月)。
母にパートを休んでもらった。一人でいたら昼間に自殺してしまうと思ったからだ。自殺するシュミレーションばかり浮かべていた。
昼頃に起きる。母親にどんな症状であるか詳細に話した。
相変わらず食事も取れなかった。風呂にはなんとか入れた。生活がしんどかった。
ベッドで寝たきりだった。寝たきりになりながら、YouTubeで元鬱病者の体験談を聴いていた。
舌を噛むかもしれないと怯える症状をネットで調べたりしていたが、なかなか見つからない。共有できない奇病だと思った。孤独感を覚えた。
3月16日(火)。
夕方、母親の車でメンタルクリニックへ。
13日からのことを洗いざらい話した。
そして、SSRIのレクサプロを処方された。
診断を通して、強迫性障害の症状が原因であり、それは脳の異常であり、「心の問題」ではないということが分かった。それは認識の革命であって、自分に一抹の安心感を齎した。
帰りにセブンでサラダを買った。帰宅後、服薬した。
その夜は少し安心して、症状は少し和らいだ。
3月17日(水)。
夕方頃に起床した。その夜、スーパーの刺身を食った。久々のまともな食事がとれた。
3月18日(木)。
夕方に起きる、鬱。恐らくこの頃からだと思う、「転移」が始まった。 背骨が折れるとか、部屋の窓から飛び降りてしまうかもしれないとか、そういうイメージが際限なく湧き起こった。そしてそれが鬱を加速させる。「やってはいけないけどやってしまうかもしれない」という恐怖。頑張って風呂に入る。
薬だけが頼りだった。足りないと思った。早く薬の時間になって欲しかった。深呼吸しないと呼吸できなかった、寝返りすらうてなかった、呻き声を上げていた。ゼリーしか食えなかった。
3月19日(金)。
これ以上悪化したくない。風呂に入れなかった。あまりの苦しみに手足の痺れが起こった。死にかけていた。
這ってリビングに階段を降り、リビングに着いた。父親と弟がこたつで「普通」に話していた。「普通」でいることがどれだけ尊いことだったのか。本当に這ってトイレに行くような感じだった。呼吸もしんどかった。
その後はいつ再発するか分からないという恐怖に怯えながらも、徐々に安定していく。
4、5月とメンタルクリニックで薬を貰う。6月は行かなかった。
しかし地獄は続行する。
6月頃から、新たな症状が出てくる。後遺症のようなものである。
首の骨が折れるイメージが反芻するのだ。気が気ではない。
その他にも自分の背骨が折れるイメージ、自分の陰茎を俎に乗せて野菜のようにザクザクと切り刻むイメージ、自分の睾丸を自分の手で握り潰すイメージ、自分の背骨が折れるイメージなどがあった。そのせいで実際に背骨に痛みが走ることもあった。背中を手で抑えていないと不安になった。
逃れられない地獄だった。
こんな異常な症状は聞いたことが無い。
他に症例があったら教えて欲しい。
7月、再びメンタルクリニックに行く。
その際、ネットで調べると、純粋強迫観念(PureーO)という症状らしい。
参考になったのは以下のサイトだ。
それに関する情報は非常に少なく、同じような症状を持つ人が相当少ないことが分かる。
診察でそれを話すと、医者は詳しくは知らないようだった。
そして8月になると安定していく。
しかし徐々に悪化していく。
11月、メンタルクリニックに行く。
そして安定する。
そしてそのまま2022年に突入する。
現在はもうほぼ寛解している。
こんな症状を発症した原因は分からない。
メンタルクリニックの医者は薬を出すだけで、適当なのだ。薬を出すことしか考えていないように思われた。
SSRI又は選択的セロトニン再取り込み阻害薬は、鬱や強迫性障害などの精神疾患に用いられる。
セロトニンが不足すると精神のバランスが崩れ、鬱病など様々な症状を引き起こす。
セロトニンの不足は何が原因なのだろう。セロトニンを増やすには日光を浴びることが欠かせないとよく言われている。
強迫性障害はひきこもりと親和性の高い症状であることは疑いの余地は無さそうだ。
であれば、もしひきこもりでなかったらどうだっただろう。そんな症状は発症しただろうか? それは検証のしようのない話だ。
もしひきこもりでなくても発症していたら、何週間かの休養を取っていただろうか。
その症状が発症しても問題無いひきこもりだからこそ発症したのだろうか。
医者は何一つ教えてくれなかった。ちゃんと聞けばよかった。
一ヶ月分服用して、良くなってきたと思ったらまた再発して通院…… というサイクルを繰り返していた。
果たしてSSRIが効いていたのかどうか。プラセボだったのか。それは分からない。
ひきこもりにとっての英雄的存在、精神科医の斎藤環氏の著書に書いてあったことだが、ひきこもりは強迫症状に歯止めが利かないという。
元ひきこもりの芥川賞作家の田中慎弥も同じような症状を発症していたと思われる。
2015年、彼の短編集『田中慎弥の掌劇場』を読んだ。
その中に収録されている『願望と遺書』という作品を思い出した。
その小説に出てくる男は、自殺願望を持っている。その願望を復活させないために、刃物やマフラーを捨て、二階建ての家を売り払った。外出してみても、川や海や川を見たら溺死する想像をした。
その「願望」とは自殺願望なのだが、それよりも「自殺強迫」と言った方が適切かもしれない。
実際に、自分が自殺してしまうのではないかと異常に恐れる「自殺恐怖」という症状が、強迫性障害にはある。
そしてこの小説のラストにこの男は気付く、そう、「舌」の存在に。
舌は「命」であり、同時に「死」でもあった。
男は「この愛すべき、恐怖の小さな肉!」と錯乱していた。
そして死ぬまで遺書を書くことによって死を遠ざけるという描写で、この3ページにも満たない短編は幕を閉じる。
この小説を読んでおいて良かったと思った。
発症して数ヶ月後に、この小説のことを思い出したのだ。そしてすかさず、本棚の奥から引っ張り出して再読した。
この『願望と遺書』は、2015年に読んだきりの『田中慎弥の掌劇場』の中でも自分の中で最も印象に残っていた作品だったのだ。
それは7年越しの救済だった。文学の偉大さをひしひしと感じた。