Manchester’s Frozen

Until suicide

戦争を知っている子供たち

今月の初め頃に、2006年W杯のウクライナ代表のユニフォームが気になってメルカリで物色したりしていたのだが、まさかそのウクライナが数週間後にこんな状況になるなんて考えもしなかった。

ここ数日で「いいね!」リストに入れていたウクライナ代表ユニフォームは3着全部売れた。

 

何故ウクライナに魅力を感じていたのだろう。まず国旗が好きだ。国歌が好きた。

スラブ圏特有の寒く息苦しそうな感じ、シリアスな国という印象に惹き付けられた。同様の理由でロシアも好きだった。

 

ロシアにハマっていた。ウラジオストク出身のロックバンドМумий Тролльが好きだった。ロシア語も少し齧った。しかし今その「ロシア」のイメージは世界中で大暴落している。

 

ウクライナ現地の子供は涙を流し口を震わせながら「爆音で目覚めた、死にたくない」と答えた。

 

バルセロナブリュッセル、パリ…… イスラム国によるテロが乱発していた時代がある。しかし「戦争」のインパクトは計り知れない。

今回は違う、他人事に思えない。テロとは異なる怖さが胸を締め付ける。その正体が何なのかは未だ掴めていないが。

 

戦争を知らない子供たち』という歌を思い出した。そこでふと思った、ぼくらは戦争を知ってる しまったのだ。「戦争を知ってる子供たち」になってしまった。「戦争を知らない子供たち」のまま死ぬと思っていた。

 

それは「平和の祭典」たる五輪が閉会した直後の出来事でもあった。

平和とは、ニュースも見ず目を背け向き合わないことに他ならないのではないかと思う。

目を閉じ耳を塞いでしまえば平和は造られる。つまり平和は捏造でしかない。

 

Syrup16gは「サイレンが聞こえてもまだ歌歌ってもいいの?/細菌ガスに噎せながら歌うたってもいいの?」と歌った。

真島昌利は「お国のためなんてどうでもいいんだ/自分が良ければそれでいいんだ」と無関心な人々を皮肉った。

無関心な人たちが羨ましい。楽しそうに笑えている人たちが。だったら考えなければいいと思われるかもしれないけれど、どれだけ深く埋めても、銃声やサイレンが耳元にこびりついて離れないのだ。

社会問題を「他人事だと思えない」人たちが、「意識高い」「考え過ぎ」などとされて損するような世界であって欲しくない。

 

殺人が正当化されるゲームが行われている。誰もが戦争を否定的なものとして学習する21世紀だと思っていた。いや、当事者のプーチンですら戦争をしている感覚は無くて、「戦争反対」の立場かもしれない。その難しさこそが戦争のポイントなのかもしれない。

 

プーチンは侵攻や攻撃を、「やむを得ない事情による措置」としている。繰り返すけど殺人が正当化されている。

キエフ陥落、政府の転覆、政権崩壊…… ニュースを付ければそんな聞き慣れないワードが頻発している。まだ「初期段階」だという。

 

これから犠牲者は増えていく一方なのか。ただただ絶望していることしかできない。