Manchester’s Frozen

Until suicide

自殺について

「楽に死ねる方法があったら生きられる」と言った。

すると「楽に死ねるならもうとっくに死んでたよね」と言われた。しかしそんなことはない。

楽に死ねるからむしろ生きられるのだ。そもそも楽に死ねるならここまで追い込まれることはないから、死ぬこともない。楽に死ねるという逃げ道で全ての痛みを癒やせる。楽に死ねないことが苦痛の最大要因なのだから。だから余裕で生きていることができる。そういう考えだ。

 


楽に死ねないから動けない。失敗できないから。

楽に死ねるなら失敗しても問題無い。死ねばいいだけ。

しかし楽に死ねないなら、失敗は許されない。本当に死ぬしかなくなるから。失敗するくらいなら動きたくない。

 


両親と衝突してしまう。

「生きて欲しい」と懇願されるが、それは完全なエゴである。

ぼくは心から死にたい。心から生きていたくない。自殺することが悪だとは誰も証明できない。ぼくにとって死ぬことは生きることより遥かに有意義である。

生きて欲しいというのは完全に自分のためである。邪魔しないでくれ。押し付けないで。自殺の権利を侵害しないで。

 


「何も分からず死なれたら後悔する」と言われた。それも自分のためだ。

「このまま死ぬのはもったいない」とか「死ぬことを美化している」などと否定される。しかしもうどうでもいいのだ。いや、どうでもいいというのは嘘だが、生きて屈辱を味わうより屈辱に塗れて死ぬほうがましなのである。

自分が死んで欲しくないだけなのに、最もらしい理由をつけて正当化させようとして押し付けてくる。

 


「何故死なないといけないのか?」と言われる。真面目に生きてきたのに、なんら悪事を働いているわけでもないのに。それは「矛盾」だと。

しかしそれは間違い。この世界においては怠惰こそが大罪らしいから。怠惰は殺人より罪深い。

 


「自分を特別だと思っている」といわれる。他に同じような人がいるのに「その人たちとは違う」と。その通りなんだよ。

ぼくは特別で、だからこそ死ぬしかない。特別とは死ぬことなんだ。ぼくには複雑な事情が絡み合っている。

他に同じような人なんていない。どこにもいない。

 


「誰かに相談しろ」といわれる。なんのために? 誰のために? 死ぬことが最適解なのに。全部「子供を亡くしたくないから」にすぎない。しかしそれを否定される。考えは否定されて、「死ぬなんて洗脳されている」といわれて、「目を覚ませ」といわれる。統一教会と同じだと。なんのため?誰のため?

 


ぼくは誰のアドバイスもいらない。生きていたくないのに、何故生きるためのアドバイスを受けないといけないのか? 誰のため? なんのため? 全ては家族のためだ。

 


死ぬ死ぬ病に洗脳されて自殺する、狭い世界しか知らず、広い世界を知らず、凝り固まった考えで自滅する人みたいにいわれる。

宗教によって殺されるわけじゃないのに。自分の意志で自殺するのに。

 


「助かりたい=生きたい」なのが間違いだ。

生きたいんじゃなくて、苦しみから逃れたいだけ。「救済=苦しまずに生きる」という方程式が間違い。

 


「助けたい」といわれた。「助かる=苦しまずに生きて欲しい」らしい。「苦しんで無理して生きてほしい」というわけではなく。楽になる道はある、救ってあげたいと。

「死ぬことで助かるとするなら?」と聞いた。すると「それは無い」といわれた。何故と聞くと、「死んだら何も無くなるから」といわれた。

それは「助かる=苦しまずに生きる」という凝り固まった方程式だ。ぼくは「助かる=苦しみの除去」なのだ。

 


自殺は唯一の救済だ。ぼくは苦痛から逃れたいだけだから。生きて苦痛から逃れることは諦めたから、死によって苦痛から逃れることを選ぶ。苦痛から逃れることが救済だから、それを実現する自殺は救済である。

 


自殺者が「助からなかった」というのはおかしい。自殺は「助かった」のだ。助からないのは「自殺もできずに生きている」ことなのだ。助かりたくて自殺するんだから。助からずに生きる方が悲惨だ。中途半端な救済で生き伸ばすくらいなら死んだ方がいい。

 


問題を解決して生き延びることだけが「救い」ではない。

 


自殺は解決ではない。現実逃避だ。敗北かもしれない。カミュとかショーペンハウアーはそう説いて、生き延びることを推奨する。しかしもうどうでもいい。家族には望ましくないけど、でも解決することを諦めたいんだ。

 


もし死が救済でないなら、もうもはや死による救済など存在しないのだ、安楽死以外に。

もし安楽死があれば、死は救済であることが成立するし、理解されると思う。解決できないことが許されると思う。

 


ぼくは「生きたいけど死にたい」ではない。死にたいしかないのだ。そんなぼくにとっての救済は死以外にありえない。

 


生きて助かる気が無いから動かない。ぼくは助けを求めない。「助かる」の意味が違うから。親の思い通りにならない。

 


死ぬ前に色々経験しろと言われた。もう何をする気力も無いのに。なんのために? 誰のために? 全ては家族のためだ。

 


プラスの意見も聞けと言われるが、ぼくはそれが気持ち悪くて受け付けないからマイナスの意見を支持しているのに、それを洗脳だとか偏っている、影響されているとかいわれる。

その意見が嫌だから、自分が理解したくないだけなのに、さもプラスの方が正しいみたいに。

 

 

 

しばしばぼくは責任転嫁してしまう。全てを環境のせいにするような発言をすると「全部人のせいにして、自分は何も悪くないのか」と言われる。

自分の失敗を親の育て方や生まれたせいにしてしまう。そもそも生まれなければと親に当たってしまう。

原因探しをしても仕方ないが、自責も他責もあると思う。

別に全てを他人のせいにしているわけではない。ただ、他人によって壊されたのも事実である。

ちなみにぼくは反出生主義を支持している。

 


自殺が救いであることを少しも理解してくれない。互いに頑固だから。嘘をつかない限り意見は食い違う。少しは理解してくれると思ったといったら、お互い様だと。

互いのエゴとエゴがぶつかり合う。自我のある他者を自分の思い通りにしたいなんて傲慢である。

 

 

 

今までは自殺するよりはましだった。

死んでいる方がましだったけど、自殺するくらいなら生きていた方がましだった。しかしもう今は違う。死んでいる方がましであり、生きているより自殺した方がましである。

 


家族を自死遺族にしたくない。

それだけがぼくの自殺を抑制している。

家族を悲しませたくないから、それ以外にぼくを生きさせるものは無い。

自殺のことを考える時に、まず思い浮かぶのは家族ことだ。

家族のために生きている。

自分のために生きていいなら、自殺している。

自分のために生きられてこなかったのだから、これは自分の人生ではないのだ。

だから自殺の権利くらいはあると思う。

少しは理解されたかった。

 


死にたい理由を詳細に話すことはできない。核心部分は自分でも分からない。

死にたい理由を列挙する気力は無い。数え切れないほどあるから。

ただ話せるだけ話せたと思う。過去にも散々色々と書いてきた。大体は理解されていると思う。

他人のことなど分からない。当然のことだ。

 


ただもう、心から生きていたくない。しかし、家族を悲しませたくない。安楽死さえあればよかったのに。安楽でなくても、死ぬことはぼくにとっては救いなのだ。本来は別に悲しいことでもなんでもないんだよ。