Manchester’s Frozen

Until suicide

それは13日(土)の午後から始まった。

舌を噛むイメージが四六時中頭を悩まさせ、精神を衰弱させた。あまりにも辛いのでもう死ぬしかないと思い、ギターのシールドで首吊り用に結んでしまった。

16日(火)にメンタルクリニックへ行った。症状を話し、SSRIを処方された。

それから数日間は何故か夜中に精神が安定することが多く、朝に就寝し夕方に起床するという昼夜逆転が始まった。

しかし19日(金)の夕方からは鬱が悪化し、何をする気力も失い、寝たきりになった。食事もまともにとれず、風呂にも入れず、何もできずに一日中ベッドでのたうち回っていた。

起き上がると手足が痺れた。吐き気も込み上げてきた。常に深呼吸をする必要があった。頭の中は舌を噛むイメージと様々な強迫症状と、逃げ道の無いような絶望感と、焦燥感や悔恨に掻き乱されていた。

特に強迫観念の苦痛は白眉で、背骨が折れるイメージや、「折らなければいけない」という観念、海に飛び込むイメージや「海に飛び込まなければいけない」という観念に気が狂いそうになった。

早く死んで楽になりたいという気持ちとまだ死ぬ訳にはいかないという気持ちが相克していた。

 

もうこれ以上悪化したくない。鬱病には日内変動がある。だから常に不安に怯えている。

なるたる』というアニメに「安らぎの時間はいつも不安。やがて終わりが来ることを目隠ししているから」という台詞がある。

Syrup16gの『バリで死す』という曲に「たまに訪れる 喜びもつかの間/かすかに聞こえる 悪夢の調べ」という一節がある。

これは別に悲観主義ではない。ただただ現実的なだけだ。

 

死ぬ以外に楽になる方法はあるのか。

一刻も早く楽になりたい。これ以上悪化したくない。

これから先、鬱病で何を失っていくのだろうか。20代前半という人生でも最も重要な時期を棒に振るのか? それはもう人生を棒に振るのと同義ではないか?

寛解しないなら死にたい。

 

これはただの鬱病ではないんだ。強迫症状がプラスされている。そもそもこの鬱病のトリガーとなったのが強迫症状なのだ。だから余計に安心できない。厄介さが桁違いではないか。

 

普通に食事を摂り、ランニングをし、筋トレをし、外出をすることができていた時期にまた戻りたい。

生きる意味無い奴等がのうのうと生きやがる。空っぽの奴等が。

ぼくはもう限界で死にそうなんだ。まだ自分のためにやりたいことがあるのに。有意義なことが。TVドラマ見て遊園地で楽しめるような奴等が生き延びて、ぼくは死ななければならないのか。

生きた証を遺したいのだ。復讐したい。全てが無駄になるなんて耐え難い。苦しんできた意味が無い。

高校中退して、ここまで生きてきた。

働かずに、ひきこもって過ごしてきた。

精神疾患になった。

それが原因で鬱になった。

その二重苦でとても苦しい。

誰一人助けてはくれない。

誰一人心配してくれない。

誰一人気にかけてくれない。

誰もぼくの存在を知らないから。

友達も一人もいないし、ネットでも孤立している。

自殺しても誰一人悲しまない。

悲しむ人がいれば心配してくれたはずだから、仕方ない。

もう苦しい。

もう耐えられないよ。

死にたくないよ。

まだやりたいこともやり残したこともたくさんあるのに。

別に自殺しても誰も悲しまないから。

誰からも必要とされていないから。

仕方ない。

メンクリ

メンタルクリニックに行ってきた。

土曜日からの強迫症状が原因で鬱になり、身の危険を感じたから。

 

自分のスペックと言えば、中卒ひきこもりニート、職歴無し、友人・知り合いゼロの精神病。ネットですら孤立している。

医者に自分のプロフィール的なことを詳らかに話しているうちに、あまりの救いようの無さに、改めて問題が山積みであることを思い知らされた。

とりあえず強迫症状と鬱の辛さを訴え、SSRIを処方してもらった。

そして、穀潰しの分際で親の金で診察を受け精神薬を貰うという罪悪感に近い後ろめたさを感じながら帰宅した。

 

診察中に「はい/いいえ」で答える診断をさせられたのだが、結果は「精神衰弱した怒りっぽい、神経過敏な死にたがり」みたいな感じだった。なんかもう泣けてくるし、その涙が誰にも拾われないから、涙からまた涙が出てくる。

 

一つ心残りは、病名が付くのか訊きそびれた。「精神病」は自称でしかない。でも病名が付いてくれないと困るレベルの症状があるという自認があるから、訊くべきだったと悔やんでいる。

 

自立への道は遠ざかっている。動けるうちに動いておくべきだった。

親との対話①

いつの日かの親との対話で、こういう一幕があった。

 

私「人生が上手くいった人には分からんよ」

母「人生が上手くいったと思ってるの?」

私「そう」

母「いや、そんなことはないと思う」

父「普通にだよ」

母「いや、子供がこんな辛い思いをしているということは全く親として失格だ、上手くいってないです」

私「そうやって言うことが良くないと思わないのか?」

母「思わない。正直なこと言った」

私「え、じゃあ『わかる』って言いたいのか?」

母「え?」

私「『上手くいった人には分からないんだろうな』って言ったでしょ、最初ぼくが。でも『上手くいってない』って言うでしょ。だから、ぼくのことが《わかる》って言いたいのか」

母「ああ、そういう風になっちゃうか、それはちょっとごめん」

私「だからそうじゃん、『上手くいってる人』じゃん。たとえ上手くいってないと思ったとしても、汲み取って欲しかった」

 

まず肯定から入るべき。それがカウンセリングの基本だと思う。否定することは、SOSを弾き飛ばす行為だ。沈みゆく泥沼から伸ばした悲鳴の手を掴んでおいて、救済と見せかけて離す行為だ。

 

母親は理解してくれる。父親は救いようがない。いつも、手遅れになってからことの重大さを思い知るタイプ。「普通にだよ」という台詞なんて思考停止もいいところだ。そういう適当な部分でどれだけ苦しめられてきたことか。

なんかもう、やりたいこと、やり残したことばかりだけど、もう無理かもしれない。このままでは死ねないのに、もう精神的に無理なんだ。使わずに遺品になるのかもしれないけど、もう仕方ない。

ごめんなさい、本当にごめんなさい。

家族には感謝しています。今までありがとうございました。

もう言いたいことも言いきれません。余裕がありません。本当にありがとうございました、それだけです。

ぼくはぼくの行くべき場所へと旅立ちました。どうかぼくのことで気に病まないで、これからも家族で仲良く生きてください。