Manchester’s Frozen

Until suicide

暁闇に見た夢の話&解説

ぼくは中3だった。しかし舞台は小学校だった。

帰路に着きかけた学校の校門前で、ぼくは忘れ物に気付き、急いで教室に戻った。忘れ物を取って戻る途中の廊下で小学1年の男子が何やら独り言を呟いていたので、ぼくは話しかけた。ぼくは彼の教室で彼の話を聞いた。死にたいこととかについて話していた。やけに成熟したガキだなと思った。サッカーにも精通していた、海外サッカーの知識が豊富だった。話し方も知的で不毛な劣等感を覚えたりなどした。するとその教室で集会が始まるというのでぼくは追い出された。帰り際、また彼に会いたい一心で手を振ったら無視された。全くこちらを顧みることすら無かった。

ぼくはもう精神の限界だった。ぼくはその場でぶっ倒れた。これは演技だ。気絶したフリをした。すると女の先生が3人くらい心配そうに寄ってきた。ぼくはしれっと立ち上がった。そして「もう無理です死にたいです、毎日死にたいです」と言った。意思表示だ、そのまま帰ることはできたけれど、何もしなかったら最悪な日常を続けるだけだ。SOSだった。すると保健室へ連れてかれた。ぼくは抵抗するふりをした。初めて女の人に、ってか人に相手にされる……

保健室には同級生くらいの美しい女子が診察していた。何を診察したいのか謎の診断が始まった。ぼくは診断で軽いミスを犯した、それを周囲の男たちに笑われた。「笑うなよ、だって分からなかったんだから」言いながら涙を流した。笑い声は止まなかった。「でもな、泣いてることは笑ってくれ」そういうと余計に笑いだした。

その後その場はAV撮影現場となった。ホワイトバックの空間で大勢の男女が居合わせた。要求されたプレイはフェラチオだった。行為無しの乱交といったところだった。ぼくも参加する運びとなった。治療も兼ねていたのかは定かではないが、従うことにした。少し嬉しい気分もあった。何しろ人生で初めて女性に触れることができるのだ。しかし治療だとしたら裏切られた気分だった。そもそも期待した自分が愚かだったのだろう、女性とのコミュニケーションが上手くいかず、ぼくは致すこともできなかった。

 


その翌日はサッカーの試合だった、小学校の頃所属していたクラブチームのグラウンドで開催された。ぼくは左サイドハーフとして先発し、得点に絡むなど活躍した。ハーフタイム、監督に「お前がスパイスとなっている。何故か上手くいって接ぎ木として機能している」と評された。ベンチには同級生の女子がいた。ぼくはモテたかった。それしか頭になかった。しかしぼくなど相手にされないだろうということは分かっていた。ぼくに関心を寄せる女子など皆無だった。ぼくは総合的に惨めだったから。それは当然だ。自分が女子でもぼくなど相手にする価値が無い。それは試合に負けるより悔しい。そのうち夢は途切れた。

 

…………………………

 

セルフで解説していきたい。

 

全く知らない人に話しかけるのは勇気が要る。先日ぼくはブックオフでおっさんに逆ナンされた。ぼくはおっさんにとって例の勇気をなるべく出さずとも行動に移せる存在だったのだろう。何しろぼくはサンドバッグみたいな男だ。寧ろ赤子と同格。おっさんには「高校生?」と聞かれた。中学生でも通るくらいだ。まあ人畜無害な存在だ。誰にだって舐められる最弱の存在。何をされたってプライドなんて無いような。失うものも守るべきものも無いような。痩せ細った眼鏡の色白の童顔の気弱そうな坊主。完璧だ。好きでそうなってるわけじゃない。ぼくは誘いを拒否した。おっさんは悲しそうだった。そんなに寂しいのか。

モリッシーのソロアルバム「Years of Refusal」のジャケット写真ではモリッシーが赤子を抱いている。モリッシーがそのキャリアをかけて歌ってきた対象の「男性的闘争原理における敗者」にとって心を開ける存在が赤子や幼児なのだ。自分が傷つくリスクの無い人畜無害な存在。ぼくが小学1年の男子に話しかけることができたのもそういう理由だろう。

 

その直後にぼくが倒れたのは「誰か拾ってくれ」という期待である。心配してくれという切望。どんな理由であれ、学校内では生徒が倒れていたら問題視するだろう。そんな環境を利用した。今となっては羨ましい。「所属」というのは便利だ、容易に被害者になることができる。

だけど学校はカウンセラーでもなんでもない。情けなさに項垂れて終わり。だから結局自分の足で歩いていかなくてはならないという何とも辛い現実を突きつけられている。

結局治療法や具体策など無く、頭の中はエロに支配される。ぼくは夢の中以外で女性に触れたことが無い。そして大概は淫行条例に反するような不埒極まりないものばかりである。夢はリアリティの極限を見せる。

 

ぼくは学生時代はいつでも女子の目線を気にしていた。あわよくば……と。しかし鏡を見てしまえばそんな望みは粉砕する。

ぼくは中学時代サッカー部だったのだが、サッカー部といえばクラスの一軍が集う場であり、ぼくの中学も例外では無かった。可愛い女子と平気で話すチームメイトと自分とは別次元の世界に生きているようだった。ぼくはクラスの3軍だったので居た堪れない気持ちになることもしばしばあり、最後まで馴染めなかった。そしてそれが不毛な劣等感を生み出したりした。

思えば生まれてこの方女子と一度もまともに話したことが無い。そして将来的にもその見込みは薄い。それをどうか許してくれよ。差を見せつけられる度に、思い知らされる度にトカレフで頭を粉々にしたくなる。許されないことは、当事者にとっては女性と話さない・話せないことより辛いのだ。

では我々は許されるのか? ……

ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』という小説では、「性的行動はひとつの社会階級システムである」という定理が示されている。それは自由主義をベースとした差異化システムである。性的行動が自由化されれば、性的魅力による階級システム出来上がり、その結果余剰物が生まれる。

この冷酷な定理を前にして、童貞や非モテを自己責任論に落とし込めるような言説を振り翳すのは最早暴力である。

繰り返すが、童貞や非モテの多くは、女性と関われないこと以上に、「そのままでいることを許されないこと」に苦しんでいるのである。かれらは「童貞で悪いということはないし、一生セックスできなくても何ら不思議ではない」という安心が欲しいのである。非モテ童貞のぼくはそういう前提が欲しいし、その社会の実現の為にもこういう定理の導入は意義のある行為であるように思う。