Manchester’s Frozen

Until suicide

レクサプロ

今すぐこの世を去って ぼくは楽になりたいよ
街は臭い花盛りで 毎秒呼吸困難

ああ ぼくを誰か 誤魔化してくれ

沈んでいく船の中で
幸福そうなきみの笑顔は
神か天使のよう 届かなくて

疎まれた悪魔の歌 それだけが真実だよ
今日も街はいつも通り 生きるには汚れ過ぎている

ああ 逃げ道など無いと言ってくれ

沈んでいく船の中で
薄れていく希望と酸素
一生 生きる時間全て 拷問だよ

ああ 生き地獄に 薬ぶち込んで

沈んでいく船の中で
幸福そうなきみの笑顔は
神か天使のよう 届かなくて

沈んでいく船の中で
薄れていく希望と酸素
一生 生きる時間全て 拷問だよ

(I'm) The End of the Family Line

何の面倒もなく

続いてきた 15世代

わが家系

みな 自然の摂理を拝受してきた

この左巻きのスタイルで

僕が現れ出づるまでは

 

僕が最後

家系の最後

一族の最後

このさか巻く喧騒の中に

泣き叫びながら産み落とされる

赤児はない

偶然でも 気紛れでも

(万が一 愛によっても)

うちの家系樹は ばっさり切り落とされて衰退へ

そして 僕は

さよならを言う苦痛を免れた

 

僕が最後

家系の最後

この一族の最後

訳:山下えりか

 

『(I'm) The End of the Family Line』は、社会不適合者の永遠の英雄Morisseyの2枚目のソロアルバム「Kill Uncle」に収録されている楽曲である。

 

左巻きのスタイル」の「左巻き」の意味が分からなくて調べたら、

左巻きとは頭が悪いこと、頭の回転が鈍いことをいう(=馬鹿・阿呆に類する)。また、そういった人を罵ったり、嘲う際に使う言葉である。これは、つむじが左巻きの人は頭が悪いという説からきている(ただし、この説自体は何の根拠も立証もない俗説である)。

ということらしい。

ちなみに元の詞は「incredible style」。「incredible」は「信用できない、信じられない」という意味だが、もし直訳すれば「信じられないスタイル」となる。その場合皮肉のエッセンスが付加されるように思う。もしかしたら皮肉屋のモリッシーだから、そういう目的もあったのかもしれない。

 

ここからは曲の解説と感想。

「自然の摂理を拝受する」ということは、特に何の疑いを持つことも無く受け継いだ通りに家系樹を伸ばしていくということで、「僕」にとってそれは「左巻き」の愚挙であるという。

何故なら、「僕」にとって子供を生み出すという行為は、地球という「さかまく喧騒」に無理矢理巻き込むという無知さとエゴに塗れた痴態であるからだ。

「僕」は出生を好ましく思っていない。寧ろ反発している。反出生主義の主張そのものであるように思う。

 

モリッシーは常にマイノリティの立場で歌っている。

子供を生まなかったり、出生に反対すると必然的にマイノリティになる。白い目で見られたり、はぐれ者とされる。

場合によっては負け組の嫉妬とかルサンチマン痛々しい、厨二病陰キャキモい等々言われる。

しかしそれらはマジョリティの幻想であり、シュガーコーティングされた眉唾物の善や正しさでしかない。

何故なら寧ろ弱者や少数派の方が善であり正しかったりする場合が多いから。真実は多数決ではない。

しかしマイノリティが勝つことはできない。

だから、「間違っていない」という肯定が必要である。せめてもの救済措置だ。それはモリッシーThe Smiths時代からやってきた試みでもある。

当然のように教えこまれてきた同調圧やありもしない「常識」から解放してくれる。

そして「弱者」こそが正しく美しいという逆転の発想を促す。「弱者」は闘争により「強者」へとチェンジすることなく、「弱者」のままで光輝く。

 

人類には「勝ち組ほど愚か」になるというシステムが横行しているように思う。ぼくらが本当に欲しいものはテレビには無い。

なるたる』という漫画に、「痛みは思考を明晰にする」という台詞がある。

それを引くならばモリッシーの書く詩には、孤立して凍死する運命にあった明晰さの尊さを温める作用があるように思う。

 

いつしかぼくは、出生について何の反省も無く「当然のことをした」と言わんばかりの顔で日々生きている祖父母に憎悪しか感じなくなっていた。

 

勿論ぼくもこの不毛な家系樹をばっさり切り落とすつもりだ。ぼくにとってこの世界と人生は地獄だったから。もう誰も味わわないように。No life, No suffering.

もし全人類がそうすれば、人類に初めての平和が訪れることでしょう……

それは13日(土)の午後から始まった。

舌を噛むイメージが四六時中頭を悩まさせ、精神を衰弱させた。あまりにも辛いのでもう死ぬしかないと思い、ギターのシールドで首吊り用に結んでしまった。

16日(火)にメンタルクリニックへ行った。症状を話し、SSRIを処方された。

それから数日間は何故か夜中に精神が安定することが多く、朝に就寝し夕方に起床するという昼夜逆転が始まった。

しかし19日(金)の夕方からは鬱が悪化し、何をする気力も失い、寝たきりになった。食事もまともにとれず、風呂にも入れず、何もできずに一日中ベッドでのたうち回っていた。

起き上がると手足が痺れた。吐き気も込み上げてきた。常に深呼吸をする必要があった。頭の中は舌を噛むイメージと様々な強迫症状と、逃げ道の無いような絶望感と、焦燥感や悔恨に掻き乱されていた。

特に強迫観念の苦痛は白眉で、背骨が折れるイメージや、「折らなければいけない」という観念、海に飛び込むイメージや「海に飛び込まなければいけない」という観念に気が狂いそうになった。

早く死んで楽になりたいという気持ちとまだ死ぬ訳にはいかないという気持ちが相克していた。

 

もうこれ以上悪化したくない。鬱病には日内変動がある。だから常に不安に怯えている。

なるたる』というアニメに「安らぎの時間はいつも不安。やがて終わりが来ることを目隠ししているから」という台詞がある。

Syrup16gの『バリで死す』という曲に「たまに訪れる 喜びもつかの間/かすかに聞こえる 悪夢の調べ」という一節がある。

これは別に悲観主義ではない。ただただ現実的なだけだ。

 

死ぬ以外に楽になる方法はあるのか。

一刻も早く楽になりたい。これ以上悪化したくない。

これから先、鬱病で何を失っていくのだろうか。20代前半という人生でも最も重要な時期を棒に振るのか? それはもう人生を棒に振るのと同義ではないか?

寛解しないなら死にたい。

 

これはただの鬱病ではないんだ。強迫症状がプラスされている。そもそもこの鬱病のトリガーとなったのが強迫症状なのだ。だから余計に安心できない。厄介さが桁違いではないか。

 

普通に食事を摂り、ランニングをし、筋トレをし、外出をすることができていた時期にまた戻りたい。

生きる意味無い奴等がのうのうと生きやがる。空っぽの奴等が。

ぼくはもう限界で死にそうなんだ。まだ自分のためにやりたいことがあるのに。有意義なことが。TVドラマ見て遊園地で楽しめるような奴等が生き延びて、ぼくは死ななければならないのか。

生きた証を遺したいのだ。復讐したい。全てが無駄になるなんて耐え難い。苦しんできた意味が無い。

高校中退して、ここまで生きてきた。

働かずに、ひきこもって過ごしてきた。

精神疾患になった。

それが原因で鬱になった。

その二重苦でとても苦しい。

誰一人助けてはくれない。

誰一人心配してくれない。

誰一人気にかけてくれない。

誰もぼくの存在を知らないから。

友達も一人もいないし、ネットでも孤立している。

自殺しても誰一人悲しまない。

悲しむ人がいれば心配してくれたはずだから、仕方ない。

もう苦しい。

もう耐えられないよ。

死にたくないよ。

まだやりたいこともやり残したこともたくさんあるのに。

別に自殺しても誰も悲しまないから。

誰からも必要とされていないから。

仕方ない。

メンクリ

メンタルクリニックに行ってきた。

土曜日からの強迫症状が原因で鬱になり、身の危険を感じたから。

 

自分のスペックと言えば、中卒ひきこもりニート、職歴無し、友人・知り合いゼロの精神病。ネットですら孤立している。

医者に自分のプロフィール的なことを詳らかに話しているうちに、あまりの救いようの無さに、改めて問題が山積みであることを思い知らされた。

とりあえず強迫症状と鬱の辛さを訴え、SSRIを処方してもらった。

そして、穀潰しの分際で親の金で診察を受け精神薬を貰うという罪悪感に近い後ろめたさを感じながら帰宅した。

 

診察中に「はい/いいえ」で答える診断をさせられたのだが、結果は「精神衰弱した怒りっぽい、神経過敏な死にたがり」みたいな感じだった。なんかもう泣けてくるし、その涙が誰にも拾われないから、涙からまた涙が出てくる。

 

一つ心残りは、病名が付くのか訊きそびれた。「精神病」は自称でしかない。でも病名が付いてくれないと困るレベルの症状があるという自認があるから、訊くべきだったと悔やんでいる。

 

自立への道は遠ざかっている。動けるうちに動いておくべきだった。