Manchester’s Frozen

Until suicide

存在証明

根本解決できなければ死んでもいいよな? 精神疾患安楽死が適用されない理由が分からない。

 

しかし結局は寂しいだけなのかもしれない。

存在の証明ができていないまま末期症状に陥った。まだ余裕のあるうちに手を打っておくべきだったのかもしれない。誰かの朝で目覚められるような状態であれば、少しは安らかに眠れるだろうし、そもそもここまで症状が悪化することも無かったかもしれない。孤独が孤立し過ぎてどこまでも歯止めが利かなかったのだ。

それは予兆も無く訪れた。今も恐怖と闘いながらこれを書いている。

中卒ひきこもりニートのぼくは常に孤立していた。未来は真っ暗で、過去の憎悪に怒り震えたり、周囲を羨んだり嫉妬したり、病名も無く、誰にも会えず、どこにも行けず、許されないまま苦しい日々を過ごしていた。

しかし昨年の冬の初めに、上京していた弟が実家に帰ってきた。

その日を境に、ぼくの精神は少し安定した。ここ数ヶ月Twitterに浮上しなかったのはそのためだ。孤立の苦痛に平気なフリばかりしていたが、全ての苦痛が癒えたのだ。もう困難なことは無かった。

しかしそんな日々は長くは続かなかった。つい数日前、末期症状が訪れた。それは予兆も無く現れた。

今度は末期症状に平気なフリをする日々が始まった。

つい数日前の正常だった頃の自分にはもう永遠に戻れないのだろうか。楽しいことがたくさんあった。ニートだから後ろめたかったけど。

やり残したことがたくさんある。やりたいことも。せめて悔いのないようにやり通したかったけど、それができないのが辛い。身辺整理が完全にできるかが不安。いつでも死ねるように生きてこなかったから。

そして家族を心配させたくない。悲しませたくない。不安にさせたくない。けれど許してほしい。

できれば生きたかった。生きたかったよ。復讐したかった。愛されたかった。

でももうきっとしんどい。生きるにはしんどすぎるよ。死なせてくれよ。死ぬことを許してくれるはずがないよな。

泣いても叫んでも無駄。いつか本当に良くなるのか? もうこれ以上苦しみたくない。

 

生きた証なんて残らないと思う。その辺の一般市民だから。だからその代わり、誰かの記憶に残れればいいのだろう。しかしぼくはそれすら望めない。

 

存在について考える。存在証明できないまま死ぬということについて。

証明されていない存在は生きていないから、死ぬこともできないのではないか。だから殺人や自爆テロを犯してしまうのではないか。

自殺するまで追い込まれて、しかし死ねないから、せめて生きてから死のうとするのではないか。存在してから死のうとするのではないか。

存在している状態の死とは、死ぬことができる状態での死ではないか。

だから、存在していないと「このままでは死ねない」と思うのではないか。

このままでは存在できないまま死んでしまう。死ねないまま。だからここまで追い込まれる。