Manchester’s Frozen

Until suicide

先制敗北宣言

私は今夏23歳になったわけだが、とても後悔している。私の青春はもうじき終わりを告げる。若者でなくなるということが怖い。いつまでも大人になれないので、内外の様々な場面でこのままでは許されなくなる事案が増えていくと思う。背凭れが氷に変わるような感覚。私は動き出せるのか。いつか来る崩壊・破滅が余裕でイメージできて恐怖に打ち震えている。

 

これに対抗するには人生の今を燃やすしかない。今を燃やす。生きまくる。後悔なんて無かったって。後悔することが何よりも怖いんだから。

でも私はもう精神的に疲弊している。「今を生きろ」というロックンロールのアティテュードはもう嫌いだ。歳をとってリアリティが無いことに気付いた。俺には無理だ。勝ち目のない背水の陣。悲観することしかできない。俺はきっと空費して後悔する。楽をする。そして後になって後悔する。あの時ちゃんとクッソ生きとけばって。二度と戻らない過去に噬臍する。俺は変わらぬゴミ。そうやって繰り返してきたし、また更に繰り返す。もう分かりきっている。俺はきっと勝てない。一人称変わってるけどどうでもいい。この人生を台無しにする。一生後悔する。そしてその果てには汚いおじさんが残っている。人生で一度も輝いたことの無い残念なおじさんが子供部屋で横たわっている。これから私はどんどんキチガイになっていくのだろう。もう既に震えているけど、まずオナニーしてから考える。終わったら忘れて今度は頭のオナニーを始める。私は将来完全な子供部屋おじさんになっても、結局燃え尽きず燻った貧乏たらしい未練で汚れた唾を垂らしながらのたうち回るのだろう。

大丈夫その時は死ぬから。

いつしか俺は死ぬことだけが救いになってきた。どんなに救いが無くて生き地獄でも、死ねばどうでもいい。そう思うことで、最悪な現実を誤魔化せた。これはSyrup16gの『明日を落としても』という曲の思考法だ。

つらい事ばかりで

心も枯れて

あきらめるのにも慣れて

 

したいことも無くて

する気も無いなら

無理して生きてる事も無い

神聖かまってちゃんの『死にたい季節』もそういう曲である。この曲はサビでこう歌われる。

ねぇ、そうだろう。諦めてると僕らは
なぜか少し生きやすくなる

この曲に関しては私はこれまで、ここでの「諦める」は「夢」を指していると解釈していた。しかし、最近はそれのみではなく「生きること」も含まれているのかもしれないと思うようになった。これもひとえに『明日を落としても』と同じ思考法である。

私はこの自分の好きな2大邦楽ロックバンドによる「慰め」によって安心感を得ていた。

 

しかしこの両バンドはそれだけでは終わらせない。そこが彼らの優れている理由である。

『明日を落としても』ではひとしきり肯定した後にこう歌われる。

そう言って

うまくすり抜けて

そう言って

うまくごまかして

そう言って

楽になれる事

そう言って

いつの間にか気付いていた

『死にたい季節』では「生きやすくなる」の直後にこう歌われる。

ねぇ、そうだろう。この季節の中でかけても
僕のラジカセは流れない

「そう言って うまく誤魔化して」「僕のラジカセは流れない」という部分には、「このままではいけない」という思いが込められている。これは「自戒」である。彼らはそこを忘れない。痛みの無い表現には魅力を感じない。

 

私にだって「このままではいけない」という思いはある。しかし終わらせるというのが救いだという思考に縋りたくなる。しかしそれは逃避である…… 思考はループするだけ。

 

私は勝てないという感覚や悲観を尊重したい。私は自らの人生を通してそれをリアリティとして価値へと昇華させたい。私は私自身をネタにする。結局後悔したくないのは変わらないから。まあ、後悔するけど。