Manchester’s Frozen

Until suicide

ロックバンド「ももこ」

ロックバンドThe Clash(以下:クラッシュ)に関する批評文を読むと、頻繁に「レベル」というワードが使われている。レベルとは「rebel」、つまり「反逆」である。筆者が好むロックは、その「レベル」と評されるロックである。いや、厳密にいえば、その「レベル」を感じられるロックである。

 

70年代後半に結成されたクラッシュは、当時不況英国社会の底辺であえぎながらも戦い続ける庶民の心を掴んだ。クラッシュはいわば、かれらの「同胞」だったのだ。そのクラッシュに代表される70年代後半のロンドンパンクは、その殆どが権威に噛みついていた。筆者はクラッシュの1stアルバム『白い暴動(The Clash)』に出会ったとき、他のすべてのロックがどうでもよくなったのを覚えている。権威に噛みつくために行われる「毒を吐く」という行為は、現状に納得いっていない証拠だし、戦う姿勢の表れでもある。それは筆者の境遇に近かったし、他ならぬロックに求めていたものである。毒も吐かずに世間に適応している/適応を促す、自己肯定している/自己肯定を促すロックなどは「敵」でしかなかった。そして、そう、そんな「毒を吐く」行為こそが「レベル」なのである。

 

だが筆者はそんなクラッシュのロックを聞いていくうちに、自分の内面の奥の方に暗い嫩芽のような疎外感が冷ややかに芽生えるのを認識した。自分はクラッシュで完全に納得することはできない、自分は「対象外」だと悟ったのである。

 

その原因ははっきりしていた。筆者が現在進行中の社会不適合者だからである。クラッシュによって救われた「庶民」の中に、「社会に適応できない者」は含まれない。社会不適合者は、クラッシュもとい70年代ロンドンパンクに救われるはずがなかったのである。

以下は、70年代パンクに関する、詩人の最果タヒによる所感である。 

 

もちろん不条理に対してなにも言わないことがいいというわけでもないけれど、かといって権威と戦うことが当然のように考えられる彼らの視野の広さが、ちょっと不自然にすら思えたし、権威の話をするばかりということは、自分のことは充実しているってことなのかしらん、いいわねーってかんじだった。

 NHKのMJに出た神聖かまってちゃんがなんとも象徴的だった。 - 最果タヒ.blog

 

これを読んだとき「同胞」がいた、と思った。筆者のような人間が、ただただひたすらに権威に毒を吐くパンクロッカーや狂ったように暴れる聴衆を見て、「どうせみんな健常者なんだろうなあ」と疎外されたような寂寥感を覚えてしまうということを正当化されたような気がした。

 

The Smiths(以下:スミス)の3rdアルバム『The Queen Is Dead』の日本語解説文に、そのことを的確にあらわす箇所があった。それによると、「70年代パンクは、たしかにあぶれ者は救ったが、唯一救済の手をこまねき、こぼれ落としてしまっていたものがあった、それは『弱者』だ」とのことだった。社会不適合者も、勿論その「弱者」に含まれる。そしてその「弱者」を救ったのがスミスだという。

 

ここまでは、筆者はロックバンドに「毒を吐く」ことを求めているが、クラッシュは「非弱者」の立場から毒を吐いていたから自分には合わなかったという話だった。さて筆者の中で必然的に、「弱者側から毒を吐いてくれないものか」という祈りが湧き上がった。ここからはそれを問いとして、「弱者の側から毒を吐くロックバンドは存在するか」というテーマに向かうとしよう。

 

スミスは、70年代ロンドンパンクに弾かれざるを得なかった弱者の居場所だった。《僕なんて人間の仲間入りをさせてもらう権利すらないんだ》(「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」)。スミスは落ちこぼれや精神異常者、(今でいう)ひきこもりの味方だった。

ではスミスは如何にして弱者の味方たりえたのか。

それは、スミスというのが自身が虐げられてきた過去を持つ弱者であるボーカルのモリッシーによる復讐であり、世界を転覆させるという野望・意欲そのものだったからである。弱者が解放されるためには、寄り添うだけでなく毒が必要だった。だからかれらは権威・世界に対して毒を吐き続けた。早い話が、スミスとはモリッシーとギターのジョニー・マーによる「共謀」であった。そう、スミスは「『弱者』サイドからの社会への切込み」を試みた恐らく初めての、レベルスピリットに満ち溢れたロックバンドなのである。

 

「弱者の側から毒を吐くロックバンド」は存在した。だがしかし、筆者はそれでも納得できない自分がいることに気付いていた。

それは、筆者はロックバンドの歌に「叫び」を求めているからである。歌において叫びは、歌の切実さを保証する唯一の材料であると考えている。モリッシーは叫ぶことを殆どしなかった。歌われている詩がどれだけ切実さで固められたものであっても、筆者は根本的に、スミスの歌に完全に納得することはできなかったのである。

 

叫びがあらわすのは、「全部ぶっ潰す」という気概、「怒り」そのものであり、それは切実さ以外の何物でもない。「シャウト」なんてものでは断じてない。クラッシュにはそれがあった。だが先述の通り、クラッシュは弱者を拾わなかった。そこで筆者は必然的に「『叫び』ながら歌う弱者側のロックバンドはいないのか」という問いを浮かべた。真っ先に思い浮かんだのは神聖かまってちゃんだった。

 

神聖かまってちゃんは明確に、弱者の立場から叫んだ。筆者の中では未だに「弱者」の象徴といえば神聖かまってちゃんである。

神聖かまってちゃんは2010年代の日本で多くの弱者を救ってきた。だが筆者は、ここ数年はその効力が薄れてきているように感じている。

それは、最近の神聖かまってちゃんにはレベルスピリットが弱まっているように感じるからだ。それは楽曲にも、活動スタンスからも明らかだ。ボーカルのの子は以前Twitterで「俺はもっと富と名声が欲しい」というようなツイートをしていたが、それはもう「毒を吐く」行為からは遠く離れている。

 

弱者の側から叫ぶにしても、毒が無ければ、いくら叫んでも内面にガスのように溜まる苦痛は報われない。

そこで筆者が求めたのは「弱者の側から叫び、尚且つ毒を吐くロックバンド」である。しかしそんなロックバンドは存在するのか?

もう救いは無いのか? 完全に突き放された、そんな筆者に救いの手を差し伸べたロックバンドがあった。それがももこである。

 

本稿ではももこのプロフィール紹介や筆者が出会った経緯等は省く。ここからはももこが如何に「弱者の側から叫び、尚且つ毒を吐くロックバンド」であるのかを証明していきたい。

 

まずは『神様なんてクソくらえ』のMVを見てみよう。

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この自作MVには一際目を引くものがある、それはベースボーカルのシホの格好だ。かれが着用しているのは「幼稚園の先生が着るようなエプロン」である。

思い返せば、神聖かまってちゃんのの子は「割烹着」を着てライブを行っていたし、スミスだって或るライブでは、暖色系の照明に彩られた空間に風船を飛ばしていた。それらに共通するのは「女性的」であるということだ。それらはロックのイメージとはかけ離れているが、「社会に適合できない男」を表現するという機能を十分に果たしている。それは「男性原理的闘争における敗者」という明確な「弱者」としての立場表明であり、世に蔓延るマッチョイズムやルッキズムへのアンチテーゼとしての役割も果たしている。そしてその姿勢は「ももこ」というバンド名からして明白である。


続いて、「叫び」について。

「神様なんてクソくらえ」を聞けばわかる通り、ももこは叫ぶ。それはメタル、ハードロックの「シャウト」とは異なる。シャウトはシャウトするためにシャウトされているのであり、そんな芸当と一緒くたにしてはいけない。ももこがやっているのは「叫びながら歌う」だ。「真剣に歌う」は多くのロックバンドがやっていることだが、ももこはその域を超えていて、もはや歌ではないのではないかと思うほどである。それも1曲トータルで。

ももこは「真剣に歌う」だけでは満足しない。それだけでは「目的」を果たすことはできないからだ。

ではその「目的」とは何か?


ももこは、並々ならぬレベルスピリットを秘めている。

クラッシュとスミスにあったレベルスピリットのそもそもの動機は、「世界を変える」という目的である。だから毒を吐く。毒を吐くのは世界を変えるための「手段」だ。楽しむためにロックをやっていない。ロックをやるためにロックをやっていない。客に楽しんでほしいなんて思わない。初期のクラッシュなどは「サンキュー」もいわず、その代わりに唾を吐いた。世界を変えるためにやっているのだからそれは当然だ。何を感謝する必要があろう。

ももこもそのスタンスを持つロックバンドなのである。 

それを裏付ける要素、つまりももこがクラッシュ、スミスと同系の並々ならぬレベルスピリットを秘めている理由を説明できる要素とは如何なるものか。ここで再度「神様なんてクソくらえ」を聴いてほしい。

サウンド」に着目したい。ドラムの音はリズムマシンなのだが、一辺倒なエイトビートが何のひねりもなくただただリズムをとるためだけに打ち続けられている。曲全体で使われているコードはスリーコードのみであり、キーはC。歌いやすさは童謡と肩を並べるレベルにシンプルでキャッチーなメロディー。テクニックなどとは無縁のただただ掻き鳴らされるだけのギター。特に目立った展開もアレンジも無い。ベースラインも、根音を連打するのみという至ってシンプルなものだ。

この全ての「無駄」を削ぎ落とした最低限の、結論だけを叩きつけるサウンドは、「(世界を変えるための)毒を吐くのに『演奏』なんてやっている暇は無い」という主張のように感じる。つまりももこの歌は「世界を変える」という目的のための手段なのだ。それは初期クラッシュの基本姿勢と重なるし、ももこが並々ならぬレベルスピリットを秘めていることを裏付ける。

 

以上を踏まえてももこは 「弱者の側から叫び、尚且つ毒を吐くロックバンド」であるといえる。

 

早い話が、ロックバンドとは「人間のことをやるか、世界のことをやるか」だと思う。人間のことばかりやられてもらっては困る。世界のこともやってくれないと。そして願わくば弱者の立場から叫んでほしい。ももこは弱者を拾い上げたクラッシュであり、叫びながら歌うスミスであり、レベルスピリットを取り戻した神聖かまってちゃんである。ももこは世界のことをやるロックバンドの足りなかった部分を完全に補填する完全無欠のロックバンドだ。

それはまさに筆者が求めていたロックバンド像であった。そしてその一つ一つが圧倒的な強度を誇っている。

 

ももこは、誰にも気にかけられない筆者を気にかけてくれた、はじめての自分「対象」のロックバンドであった。それは他者化された自分であった。世間から常に冷ややかな視線を浴びせられる自分が、その異質さで周りのバンドからの哂笑を買うももこを熱烈に信用するのは自然なことであった。ももこはその哂笑を厭わないどころか、自ら買って出る。そのラディカルな姿勢によってももこは、誰にも解放されなかった社会不適合者である自分を初めて解放した。

筆者にとって、「助けて」という声無き発狂に答えてくれる唯一の存在、唯一の居場所であり唯一の救い、いわば救世主である。

そう、ももこは「どれも嘘くさくて、自分は対象外だ」という厳然たる事実に苦しみ、排除され疎外され拒絶され続けた者の居場所なのである。そういう人間を「キモい」と思わない、寧ろ歓迎するような場所。現在誰も歌わない(かつて歌ってきたが誰も歌わなくなった)存在のことを現在進行形で圧倒的な切実さをもって歌っている唯一のロックバンドだ。

ももこにはそういう誰にも救われない存在を救うための全てが備わっている。

 

ファンが自殺したことを受けてモリッシーは「彼女の人生にザ・スミスがあったこと、それだけでも救いだった」と言い放ったのだが、それは筆者のももこに対して抱いている心境と重なる。大袈裟でもなんでもなく、筆者にとってももこはそういう存在なのである。