Manchester’s Frozen

Until suicide

詰み記

結局居場所なんてどこにも無いのだ。

 

父親に「情けない」と言われたので、「人に情けないなんて言えるような人間なのか」と返したら、

「うるせえよ、お前にウジウジ説教垂れられる筋合いはねえんだよ、出てけよ」

と理不尽にキレられた。

 

軋轢を起こすと、父親は本音を出す。日頃の鬱憤や隠している本性を顕にするのだ。

だから「働いていたらそこまで怒ってなかったか」と訊くと、

「そうかもしれない」と返ってきた。

 

働かずに実家に寄生して親の世話になって偉そうに文句垂れている私が邪魔で邪魔で仕方ないのだ。憎くて仕方ないのだ。早く働くか死んでほしいんだ。

自分だって死んだ方がいいと分かっている。

もう自殺するしかないのでは。

「親にどれだけ世話になっているか分からないのか」といわれた。何故そこまで話が飛躍するのか。

 

働いていない人間には人権など無いのだとつくづく思い知らされる。人間として認められないのだ。

完全に存在価値を無くしている自分は、客観的に見ても死んだ方がいい。人間失格なのだから自殺は半ば義務だろう。

 

誰よりも真面目に親の言うことを聞いて模範的を意識して生きてきた結果がこれだ。何故こんなことになってしまったのか。今更もう全て遅い気がする。

 

生きているだけでいいなんて、そんなのは建前だ。綺麗事だ。死んだら困るけど、死んでほしい。

私は死ぬべき人間なのだ。「死んだら困る」なんていう綺麗事がそれをリカバリーできるはずがない。

だから自殺して後悔させてやろうと思う。

強迫症状とひきこもり

衰弱している。

子供部屋のベッドで仰向けになってただただ天井を見つめている。

生きるのが怖い。社会生活なんて無理。

夏に25歳になる。親は還暦を迎える。

 

立ち上がって歩くと、自分の背骨が折れるイメージが湧く。いつか自分の背骨が折れてしまうのではないかという恐怖がある。

そして実際に背骨がじわじわと痛み出している。意識するあまり、背骨の神経に負荷がかかっているのかもしれない。だから背中を抑えないとまともに歩けないし立っていられない。

 

原因は何なのか。

精神科によると強迫症状の強弱はストレスによって左右されるという。

しかし自分の場合は、ストレスも勿論だが、ひきこもりであることも要因の一つとして挙げられると思う。

ひきこもり研究で有名な斎藤環氏の『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』という本にそのことを説明する箇所があったので、引用する。

ひきこもりでよくみられる強迫症状も、対人関係を欠いた状態ではエスカレートしやすい印象があります。あるいは対人関係を回復すると、強迫症状が快方に向かうこともしばしば起こります。なぜでしょうか。

強迫症状はゆきすぎたコントロールの衝動です。しかし家族まではコントロールできても、他人は決して思い通りにはなりません。だから、他人とかかわるには、強迫を捨てるほかはないのです。

 

なるほど、家族以外の対人関係を欠いた状態は、「強迫症状が許されている状態」だ。家族関係の中では強迫症状が許容されている。

しかし家族以外の対人関係の中では、強迫症状が許されていない。だからそこに身を置くことで、必然的に強迫症状にブレーキがかかり、快方に向かうという。

 

確かに、社会生活をしていれば、強迫なんて気にしている暇も無いのかもしれない。自分もひきこもる前までは、細かな確認行為や不完全恐怖こそあったが、こんな異常な被害恐怖の症状は無かった。

 

こんな一寸先も分からない暮らしの中で、いつかは自分の中で折り合いをつけて社会生活をしていかないといけない。

生きることに前向きになれば、自ずと病状も和らいでいくのだろう。

しかし前向きになることが欲望化されないから、やる気が出ない。やる意義も見当たらない。それを甘えとされても仕方ない。実際甘えなんだろうし。

このままだと不安を払拭できず、病状も悪化するばかりである。

窮途潦倒の部屋。出口が無い。

風習は死ねよ

父親は預かっていた札を返しに、わざわざ川崎大師へ行くらしい。

ぼくは呆れてしまいました。

世間体やありもしない常識のために、全く無意味でつまらないことに金と時間を費やすわけです。

 

面白ければ、楽しければまあよいのですが、全く仕事的に、限りなく義務的にそれをやる姿なんて見ていられません。父親の場合は残念ながら前者でしょう。

初詣だって、楽しければいいんです。しかしただ義務的に神社に並んで神(笑)に礼をし、拍手をする。思考停止も甚だしいです。

 

効力を信じているのでしょうか? 他にやるべきことややりたいことは無いのでしょうか? ぼくが自殺でもすれば気づいてもらえるんでしょうね、自分の洗脳、愚かさ、愚かしさに。死ぬまで気付かないのでしょうね。

 

厄年に親戚総出で、歳の数だけ団子を食べたりしたこともあるそうです。

 

幼い頃は、誰だって洗脳されるんです。世の風習を当たり前のものとして受け入れさせられます。しかしそれは幻想です。

この世にはそのことに気付く人と気付かない人、気付いても世間体のためにそれを手放さない人がいます。

参拝、節分、葬式、お彼岸、お歳暮…… 全てやらなくていいのです。それら風習の行為に効力は無いし、やらないと懲罰が待っているわけでもありません。つまらなくてやらなくて良くて無意味。最悪です。

 

実家には高そうな神棚がありますが、はっきりいってアホくさいです。無くていいわけですから。そんなものに高額払ってんじゃねえよ。もっと有意義な使い方があっはたはずなんだよ。

世間体を金で買ったんですね……

 

父親は、世間体や安心のためにはどんな自由だって犠牲にするので、こと風習に関しては労を惜しみません。生まれてこの方洗脳されっぱなしなわけです。当たり前のように半沢直樹を見ます。

繰り返しになりますが、楽しければいいわけです。楽しい訳でもないのに世間体や安定のために効力や意味や意義など一切考えずに行うのが思考停止だなーなどと思う今日この頃の俺だ。

落ち葉拾い(手掴み)

父親が、家の敷地内の落ち葉を手掴みで一枚一枚拾っている。

俺はその光景にショックを受けた。

音楽やラジオを聞きながらではない、他に何かやりながらではなく、ただその作業だけを当然のように無心で行っているのだ。

どうやって生きたらそのような人間が出来上がるのだろう。

やりたいことなんて何一つ無いんだ。だから当然のように仕事をし、帰宅したら目的もなくテレビのリモコンのスイッチを押す。だから落ち葉拾い(手掴み)などという無為な行為も苦にならないし、損だとも思わない。人生の時間を「落ち葉拾い(手掴み)」に費す時間なんて一秒たりとも無いはずなのに、やりたいことも成し遂げたいことも無いから、そんな行為を平気で実行できる。

つまらなく生きる才能に溢れ過ぎている。

安定や世間体のためならどんな自由だって犠牲にするような人間だ、仕方ない。

死んで欲しい。死んだらいいと思う。何が面白くて生きているのか。

 

子供を生んだり、「生きる意味はある」などという仰天発言をしたり、「生きていて幸せ」などと失言したり、父親のしてきた全てが気に食わない。

子供を生むなんて絶望的につまらない人間の犯す犯罪だ。自分の人生の無意味さに気づかない人間ほど、生きる意味はあるとか生きていて幸せだとか平気で吐かす。自分の人生の無意味さに気づいたら、やってられないことの多さに気付くし、幸せになんてなれないから当然なのか。

死にたいねぇ。

なんとなくで生まれたわけだしなんとなくで死んでいいと思う。

親っていうのは一人で生きられなかった弱者なんだと思う。「愛は弱者の言い訳だ」と誰かが歌っていましたね。結婚して子供を生み出す、いわば自分の弱さのために子供を犠牲にするんですね。

想像力が無いんですよね。

自分の親は35で3つ子を生んだわけですが、高齢出産ですよね。親は若ければ若いほどいいと思います。まあ若すぎるのは考えものですが。その辺の想像力も持ち合わせていないんですよね。25で結婚したのに10年間何やってたんすか。

 

俺の人生ってなんだったのだろう。高齢の親の元に世間体のために生まれさせられて、世間体のためにありのままであることを否定されて(ただ生きているだけでお前は社交性、協調性の無い内気で照れ屋でありそれは強制すべきと教育された)育ち、幼少期から引越しを転々とし、家庭内暴力に遭い、毎夜母親の怒号が轟き、「みんな入ってるから」という理由で辞めるという選択肢を与えられず嫌々ながらサッカーを続けさせられ、学校ではいじめに遭い、鬱病強迫性障害を患って……

何一つ選択肢が無かった。

 

父親は仕事をするために生きているので、テレビを見る以外のことができない。それどころかそもそも見たい番組なんて無いのだ。だからテレビを付けるんだ。見たいテレビ番組すら無いからテレビを付けるんだ。だからリモコンをテレビに向けて数秒毎にザッピングする。しかしテレビドラマは見る、今やってるやつだから。

当たり前のように大学を出て当たり前のように就職して当たり前のように結婚して当たり前のように子供を生み当たり前のように流行のドラマを見て当たり前のようにゴルフをやり当たり前の躾のように子供を殴り…… 俺はその「当たり前」の犠牲になった。

親は一生薄っぺらく、生きなくていい人生を生き、しなくていい会話をして、裁かれない罪を抱えたまま、「幸せだった」「良い人生だった」と言いながら死んでいくのでしょうね。それは私にとっては愉快なことではない。私が自殺することによって、それは実現不可能となる。それは私の復讐である。私を生んだことを後悔させたい。しかし親を悲しませたくないという思いもあるのだ。。ぼくの復讐が完遂するまでに死なれたら困る。

 

俺が生きていくにはここはしんどすぎる。生まれたこと自体がエラーである。まともに思考しない人間ほど子供を生むから当然です。「まとも」って何なんでしょうね。

 

そんなことを言うと、「お前はいつも他人のせいにして」「お前だけが辛いと思ってるのか」…… などと妹などに言われるので、自殺してやりたくなります。自殺して全てを後悔させたい。

 

俺はもう死んだ方がいいよ。健常者だけで生きていけばいいじゃないですか。健常者の渦の中にいるとどうしたって対立は免れない。俺は邪魔なんです。何故俺を生かすんですか?

しかし死んで欲しくないというのなら、譲歩して欲しいですよね。

戦争を知っている子供たち

今月の初め頃に、2006年W杯のウクライナ代表のユニフォームが気になってメルカリで物色したりしていたのだが、まさかそのウクライナが数週間後にこんな状況になるなんて考えもしなかった。

ここ数日で「いいね!」リストに入れていたウクライナ代表ユニフォームは3着全部売れた。

 

何故ウクライナに魅力を感じていたのだろう。まず国旗が好きだ。国歌が好きた。

スラブ圏特有の寒く息苦しそうな感じ、シリアスな国という印象に惹き付けられた。同様の理由でロシアも好きだった。

 

ロシアにハマっていた。ウラジオストク出身のロックバンドМумий Тролльが好きだった。ロシア語も少し齧った。しかし今その「ロシア」のイメージは世界中で大暴落している。

 

ウクライナ現地の子供は涙を流し口を震わせながら「爆音で目覚めた、死にたくない」と答えた。

 

バルセロナブリュッセル、パリ…… イスラム国によるテロが乱発していた時代がある。しかし「戦争」のインパクトは計り知れない。

今回は違う、他人事に思えない。テロとは異なる怖さが胸を締め付ける。その正体が何なのかは未だ掴めていないが。

 

戦争を知らない子供たち』という歌を思い出した。そこでふと思った、ぼくらは戦争を知ってる しまったのだ。「戦争を知ってる子供たち」になってしまった。「戦争を知らない子供たち」のまま死ぬと思っていた。

 

それは「平和の祭典」たる五輪が閉会した直後の出来事でもあった。

平和とは、ニュースも見ず目を背け向き合わないことに他ならないのではないかと思う。

目を閉じ耳を塞いでしまえば平和は造られる。つまり平和は捏造でしかない。

 

Syrup16gは「サイレンが聞こえてもまだ歌歌ってもいいの?/細菌ガスに噎せながら歌うたってもいいの?」と歌った。

真島昌利は「お国のためなんてどうでもいいんだ/自分が良ければそれでいいんだ」と無関心な人々を皮肉った。

無関心な人たちが羨ましい。楽しそうに笑えている人たちが。だったら考えなければいいと思われるかもしれないけれど、どれだけ深く埋めても、銃声やサイレンが耳元にこびりついて離れないのだ。

社会問題を「他人事だと思えない」人たちが、「意識高い」「考え過ぎ」などとされて損するような世界であって欲しくない。

 

殺人が正当化されるゲームが行われている。誰もが戦争を否定的なものとして学習する21世紀だと思っていた。いや、当事者のプーチンですら戦争をしている感覚は無くて、「戦争反対」の立場かもしれない。その難しさこそが戦争のポイントなのかもしれない。

 

プーチンは侵攻や攻撃を、「やむを得ない事情による措置」としている。繰り返すけど殺人が正当化されている。

キエフ陥落、政府の転覆、政権崩壊…… ニュースを付ければそんな聞き慣れないワードが頻発している。まだ「初期段階」だという。

 

これから犠牲者は増えていく一方なのか。ただただ絶望していることしかできない。

黒いシミとジョーカー予備軍と星

人間は輝きたいんだ。輝かないと生きていけないんだ。

だから生きているうちに一度も輝けずに、今後も輝ける兆しが無い場合、死後に輝いて星になることを望むのだろう。

 

つまり人間は星になりたいのだ。人間は星にならないと生きていけないのだ。

では人間が星になるとは如何なることなのか?

 

「星になる」と聞いて、ジョン・レノン石原裕次郎のように死後にもその名声が轟いて止まない……なんてそんな話ではない。人間は生きているうちにだって星になることができる。誰かに認められたり愛されたり、他者から必要とされたりすることで人間は生きながら輝き、星になれる。

 

しかし星になるのは簡単ではない。とりわけ「黒いシミ」と表現されるような人は星になるのに苦労を要する。

 

2年ほど前から、「黒いシミ」というスラングワードをネットで見かけるようになった。生前轗軻不遇で孤独死していく人々を黒いシミのような存在だと表現したニュース記事が話題となり、一部界隈でホットワードとなった。

彼らは生まれてきて一度も輝けず、黒いシミとして死んでいく。誰の記憶にも残らずに。

 

恐らく人間には誰しもそのリスクはある。そもそも人間は例外無く黒いシミのまま生まれてくるのだろう。その黒いシミは、誰かに選ばれたりすることで輝く。そして星になる。

だから生きているうちに星になれれば、死後に星になる必要はない。わざわざ望まない。

 

だが人が星になるというイベントは生前に限った話ではない。

黒いシミのような人は、生前に輝くことは困難である。

生前に輝けなければ、死後に星になるしかない。

 

人生が苦しみに満ちていて、なかなか星になれずに、希望が瀕死状態であると、死後に星になることを選ぶ。その方法はというと、前述の通り誰かに存在を知られる、認められるといったものだ。

昨今、映画『ジョーカー』と同質の事件が日本で増えている。全てがそうとは言いきれないが、「無敵の人」などと呼ばれる加害者たちもやはり星になりたかったのだろう。社会に復讐して、ニュースになる。そうすることで初めて自分の存在証明ができる。その時に初めて星になる。

東大で受験生を襲った少年は「事件を起こして死のうと思った」と供述した。彼も生きているうちに星になる兆しが見えなかったのだろう。だから「事件」と同時に星になることを選んだのだろう。死と同時に星になる。ただ死ぬだけでは星になれない。星になる方法が「事件を起こす」以外に無くなってしまう。そしてこの最悪な人生を終わらせる。そして死後に星になる……

自殺配信も同じだと思う。電車に飛び込むという行為は、誰を殺さずとも自爆テロの一種だと思う。首吊り配信も、「事件+死」と引き換えに星になる。誰かの記憶に残る死を。そして彼らは「伝説」になった。

ただ自殺するだけでは、苦しみに満ちた意味の無い黒いシミのままで終わるだけだから。

 

ここで2016年に自殺配信をした前田仁という男の、生前に書かれたブログのあとがきに当たる「おわりに」の部分を引用したい。

このホームページを作った理由を書きます。

確かに俺は、1988年7月24日から自殺したその日まで、この世界に存在していたけども、
人知れずこの世界から消えてしまうと、俺がこの世界に存在していた事実まで消えてしまうような気がして、
それが怖くて寂しくて、自殺が出来なかったんですね。

だから俺は、俺がこの世界に存在していた証拠を残す方法を考えて、
自分の人生を書いたホームページをネット上に公開することを思い付いたんです。

なぜなら、このホームページには俺の人生が書かれてるけども、
だからこのホームページを見た人の脳に俺の人生が記憶されるけども、
その記憶こそが、俺がこの世界に存在していた証拠になると思ったからです。

…要するに、俺が自殺出来た理由は、
このホームページをここまで見てくれたあなたのお陰なんです。
本当に感謝します。ありがとうございました。

さようなら。

https://archive.fo/3LDAz

 

彼も、「誰かの記憶に残る死」を行うこと以外の方法で、その人生で輝くことは不可能だったのだろう。

 

 

因みにこんなエントリを書いているぼくは黒いシミである。街を歩けばスターだらけである。眩しくて死にたくなる。

世の中には木村拓哉大谷翔平のような生まれながらのスターもいれば、黒いシミ出身のスターもいる。一般人のスターもいれば、事件を起こしてスターになる黒いシミも、事件を起こしそうな黒いシミも、事件を起こさず死ぬ黒いシミもいる……

 

人知れず自殺して黒いシミになった人を思う。彼らは何のために生まれ、何のために苦しんできたのか。

 

星になれれば、その輝きの強さは人それぞれだが、星になれればもうそれで人生完了。コンプリート。大谷翔平木村拓哉になれなくても満足できる。人間、星になれれば人生コンプリート。カーペンターズのTop of the Worldの気分になれる。

 

ぼくは生きているうちに人生をコンプリートできるのか。

人生がゲームオーバーしても身体が終わってくれない。人生がゲームオーバーして身体を安らかに終わらせることができたら、もう何の不満も無いのだが。敗者を無駄に生かすから事件の霰が止まない。

ぼくはこのままでは死んでも星になれない。空っぽの苦痛に満ちた才能も魅力も無い黒いシミである。どうすれば良いのか行き詰まっている。ぼくはこの先どうなるのか…… 自殺配信をする自分の映像が浮かぶ。その時は誰か見てくれるだろうか。