Manchester’s Frozen

Until suicide

(I'm) The End of the Family Line

何の面倒もなく

続いてきた 15世代

わが家系

みな 自然の摂理を拝受してきた

この左巻きのスタイルで

僕が現れ出づるまでは

 

僕が最後

家系の最後

一族の最後

このさか巻く喧騒の中に

泣き叫びながら産み落とされる

赤児はない

偶然でも 気紛れでも

(万が一 愛によっても)

うちの家系樹は ばっさり切り落とされて衰退へ

そして 僕は

さよならを言う苦痛を免れた

 

僕が最後

家系の最後

この一族の最後

訳:山下えりか

 

『(I'm) The End of the Family Line』は、社会不適合者の永遠の英雄Morisseyの2枚目のソロアルバム「Kill Uncle」に収録されている楽曲である。

 

左巻きのスタイル」の「左巻き」の意味が分からなくて調べたら、

左巻きとは頭が悪いこと、頭の回転が鈍いことをいう(=馬鹿・阿呆に類する)。また、そういった人を罵ったり、嘲う際に使う言葉である。これは、つむじが左巻きの人は頭が悪いという説からきている(ただし、この説自体は何の根拠も立証もない俗説である)。

ということらしい。

ちなみに元の詞は「incredible style」。「incredible」は「信用できない、信じられない」という意味だが、もし直訳すれば「信じられないスタイル」となる。その場合皮肉のエッセンスが付加されるように思う。もしかしたら皮肉屋のモリッシーだから、そういう目的もあったのかもしれない。

 

ここからは曲の解説と感想。

「自然の摂理を拝受する」ということは、特に何の疑いを持つことも無く受け継いだ通りに家系樹を伸ばしていくということで、「僕」にとってそれは「左巻き」の愚挙であるという。

何故なら、「僕」にとって子供を生み出すという行為は、地球という「さかまく喧騒」に無理矢理巻き込むという無知さとエゴに塗れた痴態であるからだ。

「僕」は出生を好ましく思っていない。寧ろ反発している。反出生主義の主張そのものであるように思う。

 

モリッシーは常にマイノリティの立場で歌っている。

子供を生まなかったり、出生に反対すると必然的にマイノリティになる。白い目で見られたり、はぐれ者とされる。

場合によっては負け組の嫉妬とかルサンチマン痛々しい、厨二病陰キャキモい等々言われる。

しかしそれらはマジョリティの幻想であり、シュガーコーティングされた眉唾物の善や正しさでしかない。

何故なら寧ろ弱者や少数派の方が善であり正しかったりする場合が多いから。真実は多数決ではない。

しかしマイノリティが勝つことはできない。

だから、「間違っていない」という肯定が必要である。せめてもの救済措置だ。それはモリッシーThe Smiths時代からやってきた試みでもある。

当然のように教えこまれてきた同調圧やありもしない「常識」から解放してくれる。

そして「弱者」こそが正しく美しいという逆転の発想を促す。「弱者」は闘争により「強者」へとチェンジすることなく、「弱者」のままで光輝く。

 

人類には「勝ち組ほど愚か」になるというシステムが横行しているように思う。ぼくらが本当に欲しいものはテレビには無い。

なるたる』という漫画に、「痛みは思考を明晰にする」という台詞がある。

それを引くならばモリッシーの書く詩には、孤立して凍死する運命にあった明晰さの尊さを温める作用があるように思う。

 

いつしかぼくは、出生について何の反省も無く「当然のことをした」と言わんばかりの顔で日々生きている祖父母に憎悪しか感じなくなっていた。

 

勿論ぼくもこの不毛な家系樹をばっさり切り落とすつもりだ。ぼくにとってこの世界と人生は地獄だったから。もう誰も味わわないように。No life, No suffering.

もし全人類がそうすれば、人類に初めての平和が訪れることでしょう……